【淡々とした描写の凄み】井伏鱒二『黒い雨』 新潮文庫

文学

こんにちは、アマチュア読者です。

今回ご紹介するのは、井伏鱒二『黒い雨』です。

戦争文学に分類される本書では、広島に投下された原爆が人々に及ぼした凄惨な影響が淡々とつづられています。

フィクションの形をとってはいるものの、誇張された表現があるわけではなく、それが戦争の悲惨さを一層浮き彫りにします。

時間の経過とともに悪化の一途をたどる現場の情景描写には言葉を失います。

あらすじ

広島で被爆した閑間重松(しずましげまつ)は、縁談がまとまりかけている姪の矢須子に持ち上がった被爆の噂を晴らすべく、矢須子(やすこ)と自分の日記を清書しはじめます。

しかし、そのうちに矢須子に原爆病の症状が現れ、黒い雨に打たれていたことがわかります。

結婚が決まりかけていたときに発覚したこともあり、矢須子は理不尽な境遇に悲しみ、苦しみます。

重松は矢須子を広島に呼び寄せたのは自分であったために、責任を重く受け止めます。

若い女性は田舎にいても都会にいても、徴用で軍需工場の女工にされ、ハンマーを振りあげたり砲弾を削ったりする労働をさせられることを不憫に思い、自分の勤め先の工場にお願いして工場長の伝達係にしてもらったのです。

原爆投下後すぐに工場を立て直すべく、重松は奔走しながらも、道中で爆風や熱線の被害を受けた人々を目にします。その描写には感情は込められておらず、ただ重松が見たままの光景があらわされています。

本書は現在と日記に綴られた過去を行ったり来たりします。

現在では、重松のまわりに他にも原爆病に向き合いながら生活している人がいます。

重労働には耐えられないため、知恵を絞って鯉の養殖で生計を立てようとしますが、体を動かさずに楽をしていると思われて、被爆しなかった人から嫌みを言われ、近所づきあいにも影響が出ます。

この描写は必ずしも差別的だとは言えませんが、まわりと違うことをする人を目にしたり、相手を弱者と見ると態度が大きくなるのは人間が持っている宿業かもしれません。

治療法もわからない原爆病に苦しむ矢須子をどうすることもできず、鯉の養殖を手伝いながら重松は、「いま山の向こうに虹が出たら矢須子の病気が治る」と占うところで本書は幕を閉じます。

主に重松の視点で語られる本書は、戦争の悲惨さ、特に原爆被害のすさまじさを淡々と描いています。それだからこそ、戦争とは何なのかを凄みをもって問いかけられている気持ちになりました。

黒い雨

タイトルにもある黒い雨は、原爆が投下された後に一時的に降った雨のことで、本書では矢須子が原爆投下後の雨に打たれています。

そのことが一因となって、矢須子はのちに原爆症に苦しむことになります。

日本では広島だけでなく、長崎でも黒い雨の降雨記録が残っています。

海外に目を転じると、フランスやソ連の核実験場でも原子爆弾投下後の降雨の記録が残っています。

黒い雨は原爆の被害を直接受けなかった地域にも降り注ぎ、深刻な放射能汚染を広範囲におよぼしました。

黒い雨は、矢須子の日記に次のように綴られています。

午前十時ごろではなかったかと思う。雷鳴を轟かせる黒雲が市街の方から押し寄せて、降って来るのは万年筆ぐらいな太さの棒のような雨であった。真夏だというのに、ぞくぞくするほど寒かった。雨はすぐ止んだ。

本書では黒い雨に打たれた後の矢須子が、高熱や頭髪の脱毛、腫れ物による炎症に苦しむ様子を感情的な表現に頼らず、つとめて客観的に、しかし矢須子に寄り添うような形で綴られています。

このような文章を書く著者の描写力に思わず唸りました。

おわりに

戦争に関する本は世に出まわっています。

小説やノンフィクション作品だけでなく、マンガや写真集も多く出版されているでしょう。

本書は戦争文学であり、視覚的に訴えるものはありません。

フィクションにもかかわらず話は淡々と進んでいきます。

しかし、登場人物が目にした光景を読むと背筋が凍り、戦慄します。

明確にイメージできないからこそ想像力が膨らみ、戦争とはどういうものなのかを考える時間が生まれます。

あの戦争が終わって、日本に住んでいる人のほとんどは戦争を経験していません。

何も知らずにいても、戦争をわかったかのように論じることはできます。

しかし、実際に体験していなくとも、せめて知ろうとして追体験する態度は必要なのではないでしょうか。

終戦記念日を前にして本書を読み終えましたが、薄れていく日本人の戦争に対する記憶を後世に伝えるための拠り所としても、『黒い雨』は大切な1冊だと思いました。

最後に、橋のたもとで凄惨な姿で倒れている人を見て重松が発した言葉をご紹介します。

戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい。

本書にゆかりのある地については、以下のブログで紹介されています。

こちらもぜひご覧ください。

『小説「黒い雨」の舞台神石高原町・井伏鱒二生誕の地・ホロコースト記念館の探訪』
NHK文化センター福山教室現地講座・文学の旅(12月20日)井伏鱒二の小説「黒い雨」の舞台神石高原町(広島県)・井伏鱒二生誕の地(福山市加茂町)・「アンネの日…

今回は井伏鱒二『黒い雨』をご紹介しました。

本書のあらすじだけ知ったところで、戦争はどういうものかを考えるきっかけは生まれません。

著者の淡々とした文体で語られるあの戦争は、実際に読んでみることでその凄みに圧倒されます。

文学の可能性はこういうところにあるのかと実感できる名著です。

この機会にぜひ手に取ってみてください。

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