【思わず背筋が伸びます】白洲正子『たしなみについて』

エッセイ

こんにちは、アマチュア読者です。

今回ご紹介するのは、白洲正子『たしなみについて』です。

本書には、日本の古典や芸能、工藝に精通した著者が考える身のふるまいや美に対する姿勢があらわれています。第二次大戦中にGHQの要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた白洲次郎の妻であることでも有名です。

「たしなみ」を辞書で調べると、「芸事に関する心得、ふだんの心がけ」とあります。現代では使われる頻度が減っているこの言葉は、本書のタイトルにぴったりだと思います。

本書はふだん何気なく口にしている言葉や、無意識に繰り返している行動を見直すきっかけを与えてくれます。

過渡期はものごとを見直す時期

「現代にかぎらず、あらゆる物に一大変化が起きる時代には、古きも新しきも、すべては新しく見直されなければならない」と著者は言います。

たとえば、平安時代も完成の極にある一時代であるとともに、貴族から武士の文化に移行する一つの過渡期とも考えられます。見方によっては、源氏物語や枕草子、栄華物語といった貴族文化の象徴となる作品を生み出した平安朝には、満ちたりたものに付きまとう倦怠感のようなものが漂っていたのかもしれません。

平安時代が下るにつれ、人の心は硬直化し、流行は硬直化し、文章の伸びやかさも失われていったといいます。これとは対照的に、武士が台頭して鎌倉時代に移る時期というのは文化的に洗練された文物の価値が低下し、武力を高めることに関連した対象が尊ばれるようになります。禅の思想や八幡宮はその一例でしょう。

終戦を迎えた1945年から現代までを振り返ると、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われるほどの経済成長を達成し、三種の神器と呼ばれたテレビ・冷蔵庫・洗濯機が庶民の手に入るようになり、インターネットが普及し、スマートフォンが当たり前のように使われるようになりました。

いうまでもなく、この100年に満たない時期には生活様式に凄まじい変化が起きています。後世で生活史を振り返ったときに、この時代は間違いなく特筆されるでしょう。

こういった時期だからこそ、周りに流されて無意識におこなっている日常のふるまいを立ち止まって考えてみることが大切だと感じました。

本書では、能や茶道の「型」を例に挙げて、自由とは何かが論じられています。考えられる自由というのは、実は先人がすでにおこなっていることであって、ほとんどのことは後追いになります。

たとえ自分がはまった型を破ったとしても、それは「型破り」という別の型に新しくはまったことになります。著者が考える自由とは、「自由にどんな型にでもはまる」ことです。この考えに唸りました。

「命には終わりあり。能には果てなし」

何でも一芸に達した人は、ときに珠玉の言葉を残します。能の芸術を完成させた世阿弥は、自らの体験から次のような言葉を生み出しました。

「命には終わりあり。能には果てなし」

世阿弥にとって、能はたのしみでもあり、くるしみでもあったといいます。この「能」という一字は、さまざまな言葉に置き換えられるというのが著者の考えです。

教養、文化、人間、自分の仕事……果てがないと思えるものに出会えたとしたら、その人は幸せでしょう。私たちは毎日のように身のまわりの出来事に振り回されていますが、それよりもっと小さな自分という人間をつくり上げることに専念した方がいいのではないでしょうか。どこまでいっても果てがないと思えるものを掴んだ人は、周りのことに関心がなくなるはずですから。

おわりに

今回は、白洲正子『たしなみについて』をご紹介しました。古典や伝統芸能、工藝に精通した著者の洞察力が光るエッセイを読むと、大切なことなのに普段考えていないことを教えてくれます。ぜひ読んでみてください。

著者が歩んできた道のりは、『白洲正子自伝』に詳しく書かれています。本書を読むだけではわからない、常識にとらわれない破天荒とも思える著者の半生が綴られています。こちらもおもしろいので、ご興味があればぜひ!

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