こんにちは、アマチュア読者です!
今回ご紹介するのは、リタ・クレーマー『マリア・モンテッソーリ 子どもへの愛と生涯』です(原題は”MARIA MONTESSORI -A Biography-”)。
原題からわかるとおり、本書は現代の日本でも話題のモンテッソーリ教育法を発明した、マリア・モンテッソーリの伝記です。
モンテッソーリに心酔した崇拝者によって書かれた伝記はいくつもありますが、本書の著者であるリタ・クレーマー(Rita Kramer)は、第三者としての客観的な目を持ってモンテッソーリを描いています。
モンテッソーリ教育は子どもが自分を律し、自発的に行動できるように導くことを目的にしています。
モンテッソーリ教育のテクニックだけをまとめた書籍は現代でも多く出版されていますが、本書を読むことで、彼女の思想の根底にある大切なものがわかってくるのでオススメです。
本書はモンテッソーリ教育を理解するうえでの名著だといえます。
モンテッソーリの生まれ故郷と家族
マリア・モンテッソーリは、イタリアのアンコナ地方にあるキエラヴァエという町で生まれました。
タバコを育てて加工する事業が有名で、麦や醸造用のぶどう、オリーブなども栽培されていた地域です。
1870年8月31日生まれ、それは新生国家が誕生した、ちょうどその年に当たります。
アンコナの港町では、いまだに女性たちがアドリア海を見下ろす丘の古い泉から家まで、水を瓶に入れて運んでいました。
眼下には、波止場や倉庫、住宅の広がりを見せて、騒々しく混雑した近代的な街が開けていました。
ここには、イタリアの2つの世界、新しい世界と古い世界とがありました。
そして、マリア・モンテッソーリは、その両方に属していました。
彼女は、過去の教えを学びながらも、未来を形作ることを自らの任務と課したのです。
父のアレッサンドロ・モンテッソーリは、本書によれば、保守的な気質と軍人的習性とを兼ね備えた古風な紳士でした。
若い頃は軍人、昇進を重ねてのちには官吏となったアレッサンドロは、長い間の忠実で有能な働きぶりが称えられ、カバリエーレ(騎士)の称号を授けられます。
このリボン勲章を胸に飾り、自分の働きぶりを誇りに思っていたといいます。
アレッサンドロは転勤が多く、各地を転々としながらキエラヴァエに赴任します。
そこで8歳年下の地主階級のレニルデ・ストパーニに出会いました。
レニルデは当時としては珍しく高い教育を受け、名前を書ければ自慢の種になるような町にあって、読書に没頭しているような女性でした。
2人は1866年の春に結婚し、4年後にマリアが生まれました。
当時の日本は江戸から明治にかけて怒涛の近代化が進んでいたときだね
保守的なアレッサンドロに対して、変わりゆく世界を柔軟に受け入れられたのはレニルデでした。
マリア・モンテッソーリが前人未到の人生を歩むなかで、いつも味方になってくれたのは母のレニルデでした。
マリア・モンテッソーリの学生時代
①小学生時代
モンテッソーリ一家は、アレッサンドロの仕事の都合でローマに引っ越します。
マリアが5歳のときのことでした。
この引っ越しがマリアの教育のためでなかったとしても、結果として得るものは多かったはずです。
マリアは首都で生活することになりましたが、そこには大学、図書館、博物館などの多種多様な施設が整っている文化の中心地でした。
劇場、オペラ座、カフェテラスなどが生き生きとした雰囲気を醸成し、知識人やジャーナリスト、芸術家たちも多く滞在していました。
マリアは小学生の頃から勉強が得意で、一度劇場に連れて行かれたときも数学の本を持って行って、上演中ずっと薄暗がりの中で勉強し続けていたほどの熱中ぶりだったそうです!
小学生の頃からすごい集中力だったんだね!
②中学・高校生時代
自信に満ち、意志が強い幼い頃のモンテッソーリは、公教育制度で小学校以上進む少女の数がかなり少なく、中・高等教育を受ける女学生のほとんどが古典コースを選んでいた当時にあって、工科コースに進学することを志し、その意志を貫き通します。
日本の場合に当てはめて非常にざっくりいうと、古典コースが文系、工科コースが理系という違いになるでしょうか。
③レオナルド・ダ・ヴィンチ工科大学へ
マリア・モンテッソーリは、1886年の春に工科学校を卒業しました。
全科目で高得点をとり、最終成績は150点満点中137点という立派な成績でした。
彼女は国立レオナルド・ダ・ヴィンチ工科大学に進学し、そこでもよい成績を修め続けます。
現代言語と自然科学を勉強しましたが、もっとも好きな科目は数学で、成績も最高だったといいます。
それまでは技師になりたいという願望を持っていたマリアですが、徐々に生物学に興味を持ち始め、医学―それはイタリアの女性がまだ成し遂げたことのない学問―を学ぼうと志します。
当時の近代女性の歩む道として、教師になることは容認され始めたとはいえ、そのほかには妻になり母親になること以外は考えられなかった父や親戚、一家の友人たちはショックを受け反対しましたが、マリアの決心は揺るぎませんでした。
イタリア初の女子医学生
モンテッソーリはローマ大学医学部に進み、医師を目指して勉強に励みます。
ローマ大学は国立機関で政府によって運営されており、哲学部、数学および科学部、医学部、法学部から構成されていました。
マリアは家族とともに住んでいたので、医学生のあいだは大学で過ごす時間はそれほど多くなかったといいます。
講義に出席し、家に帰ったらノートを復習し、読書にいそしむ毎日だったようです。
勉強に真摯に取り組んでいたマリアは、成績優秀者として大学から表彰され、奨学金も授かっています。
仲間の学生たちは、そんなマリアを妬み、いろいろな嫌がらせをしました。
冷たくしたり、マリアを避けたり、陰口をたたいたりと、散々な目に遭わせようとしましたが、彼女は忍耐強さと冷静な態度でふるまったといいます。
最終学年になると、学生たちはクラスメートを前にして講義を行う時間が設けられました。
モンテッソーリがのちに友人に語ったところによると、彼女は仲間の学生がきわめて批判的だろうと考えていたといいます。
しかし、いざ蓋をあけてみると聴衆は静まり返って注意を集中し、講義の内容と進め方に感心していたといいます。
そればかりではなく、当初は医学生になることに反対していた父アレッサンドロも聴衆の中にいて、娘の講義を見守っていたのです。
こうして親子の仲たがいが終わりました。
卒業論文も無事に書き終え、マリア・モンテッソーリはイタリアで医学部を卒業した最初の女性となったのでした。
彼女はきわめて良い成績で卒業しました。
11人の試験官それぞれが受験者の最終成績に10点まで与えることができたのですが、100点以上がきわめて優秀とされていた中で、マリアは105点も獲得しました。
医学から教育学へ
1896年に医学部を卒業するとすぐ、マリアはその秋にベルリンで開かれる国際婦人会議のイタリア代表使節団の一員に選ばれました。
このときのスピーチを皮切りに、彼女は世界各地でさまざまなテーマについて講演をおこなうようになります。
マリアは講演で原稿を用意せずに、雄弁に演説していたといいます。
事前にどのくらい準備していたのかはわかりませんが、人の感情に訴える表現に長けていたのでしょう。
医学部を卒業して、本格的に医師の道を歩み始めたマリアですが、与えられていた役割に一つに、ローマにある精神障がい者の保護施設に行って、クリニックでの治療に適した症状をもつ患者を選び出すことがありました。
その保護施設には、知的成長の遅れた子どもも収容されていました。
学校や家の中で適応していくことができず、ほかに何の公共施設もないままに保護施設に投げ込まれていたのです。
マリアは医者であり、人間の苦しみを救うことを目指していましたが、子どもの病気に特別な関心を寄せていました。
保護施設に収容されていた子どもたちをつぶさに観察し、発達遅滞の子どもたちについて書かれた文献を片っ端から読み込みながら、マリアは彼らの知的活動を促進する方法を考え続けました。
彼女が考える子どもに対する教育の信念として、「まず感覚の教育、それから知能の教育」というものがあります。
たとえば、庭へ散歩に連れ出し、さまざまな大きさ、色、香りの花を使って、視覚と嗅覚を刺激することが大切だと述べています。
触覚の訓練には、子どもたちの注意を引きつけ、興味を持てるような様々な手ざわりの物体を使うことを勧めています。
モンテッソーリ曰く、感覚教育が始まり、興味を起こし始めると本当の授業に入ることができるといいます。
教育法の猛勉強
彼女は、低知能児教育学校として知られる医学教育機関で2年間を過ごしました。
そこでは、小学校で普通に行動できない子どもたちや、知恵遅れとして保護施設に送られていた子どもたちなど、発達遅滞の子どもたちを観察し、教育する特殊教育の教師が養成されていました。
モンテッソーリの関心は医学から教育に移っていきました。
彼女は朝8時から夜7時まで施設にいて、教え、観察し、さまざまな教具や方法を実験し、トライアンドエラーを繰り返しました。
夜は、昼間観察したことをノートに整理し、特殊教育を扱った専門文献で手に入るものはすべて目を通して徹底的に勉強していたといいます。
それだけでなく、自分の考えを書き記したり、もっとも効果的だと納得いくものができるまで、教具のスケッチを描いたり、モデルを作ってみたりもしました。
本書の中で、「あの二年間の実践が、私の最初の教育学における一歩、まさしく真正の一歩だったのです」と、モンテッソーリは語っています。
モンテッソーリ教育のはじまり
マリア・モンテッソーリは、もはや医師ではなく、教育者そのものになりました。
先人が障害児教育のために開発していた教具をもとにして、生徒の反応を観察しながら独自の修正を加え、自ら手作りの教具を作り出しました。
彼女の言葉を借りると、「使い方を知っている人の手にわたれば、もっとも素晴らしい効果的な手段となるが、まちがって与えたときには、障害児の興味を引きつけることはできない」ものだったといいます。
のちに普通児にも使用されて、モンテッソーリ教具、モンテッソーリ・メソッドとなるのは、この教具とこの提示法になります。
たとえば、文字の練習に使われる教具があります。
モンテッソーリは、木で立体のアルファベット文字を手作りしました。
母音は赤、子音は青のエナメルで塗られたものです。
子どもたちは、この文字のモデルを何度も何度も触り、輪郭をなぞり、ついには文字の形を再現するのに必要な動きができるようになったといいます。
そして、黒板にチョークで文字を書くことができたのです。
「まず感覚の教育、それから知能の教育」の実践ですね。
モンテッソーリは自著の中で、教育方法について詳述し、教具やその使用法について著し、まずは感覚を訓練し、次には読み書き、最後には算数まで教えることを書いています。
教具をデザインしたり、その提示法を改善したりするとき、彼女はいつでも子どもたちの行動観察にもとづいて、読み書きの教育法を開発するという姿勢を崩しませんでした。
子どもを観察して見守るという姿勢はとても大事だね
モンテッソーリは、たえず子供たちを観察することで、おもちゃよりも与えられる挑戦の方に興味を持つことや、自分一人で物事をしたがること、報酬にではなく仕事そのものに興味があることなどに気づきました。
彼女は、子どもの自発的活動が自由に行われうる環境をもたらすように、子どもたちの教育を進めなければならない、と決心したのです。
モンテッソーリが目的としたのは、子どもたちを自立させること、自分のことは自分でできるように教えることでした。
自己の制するところに従う、ということが教育過程の究極目標である、とモンテッソーリは考えていました。
それこそが、モンテッソーリがこれまでの人生で培ってきたものであり、教え子たちに達成してもらいたいと願っていたことでした。
モンテッソーリ教育の人気
20世紀初頭には、モンテッソーリ・メソッドはヨーロッパをはじめ、世界中に広がっていきました。
世界中からモンテッソーリの指導を受けたいという要望が相次ぎ、彼女は正しい教育法を伝授するために教師たち向けに講義をおこなうようになりました。
1912年には世界的に有名になった結果、津波のように人が押し寄せてきたといいます。
モンテッソーリは、教師の役割は「教える」ことではなく、子どもたちが教具を使用して遊びながら、自発的な活動を引き出すために適切な環境を作り出し、自己教育をおこなえるようにし、見守ることであると強調しました。
とくにアメリカでの3週間にわたる講演行脚によって、聴衆はモンテッソーリに熱狂しました。
この期間にモンテッソーリは各界の著名人と会う機会に恵まれましたが、その中でもヘレン・ケラーとの時間は貴重でした。
ヘレン・ケラーは耳も聞こえず、目も見えないのに文明化され、読み書きや教養を身につけたのです。
自分を律して自ら学ぶ姿勢を身につけたヘレン・ケラーと実際に話すことで、モンテッソーリは多くのことを感じたのではないでしょうか。
ヘレン・ケラーがどのような人生を歩んだのかは、こちらの記事にまとめています。
一方で、高まる一方のモンテッソーリ教育の人気は権力者に悪用されることにもなりました。
イタリアでムッソリーニが政権を奪取した際には、モンテッソーリ教育を政治の手段に利用されました。
モンテッソーリは、独自の考えを持つ人々の国をつくることや、自発的な活動が個々の子どもの可能性を最大限に伸ばすような整備された環境を提供することを真剣に考えていました。
これに対してムッソリーニは、何よりも実際的な人で近代的な産業国家を建設するためには、だれもが能率的に読み書きを学べるようにしなければならないと考えていました。
2人の理想はあまりにかけ離れていましたが、イタリア社会にモンテッソーリ教育を必要としていることは共通していました。
ムッソリーニはファシスト体制のもとで、実用性のみを追求するためにモンテッソーリ教育を利用しましたが、モンテッソーリとの社会的理想に対する摩擦が大きくなるとすぐにモンテッソーリ・スクールを閉校させてしまいました。
マリア・モンテッソーリの思想
モンテッソーリは、自分が考える正しい教えにもとづいた教育を子どもたちに与えることを至上命題しました。
それは、彼女の理論から外れた教え方を拒絶するということを意味し、自分が注意深く築き上げた理論がしだいに変形していくことには我慢ならなかったといいます。
十分な理解もなく、私腹を肥やすために利用した人々によって理論が歪曲されたり、乱用されたりした経験が彼女にあったようです。
ムッソリーニにモンテッソーリ教育を利用されたことはその一例でしょう。
一方で、個人的な制度化によって純粋さを守ることの代償として、ある種の硬直化や委縮を招くことは避けられません。
両者はトレードオフの関係です。
モンテッソーリほどの知的背景、教養を持った人であっても、人類の思想史の中で、どの理論も学問が進むにつれて修正され、人の必要性が変わるにつれて変化しない訳にはいかないということを心に留めて柔軟に行動することは難しかったのでしょう。
ただ、確固たる信念を持たないかぎり、彼女が歩んだ前人未到の道のりを辿ることは不可能だと思います。
おわりに
今回はリタ・クレーマー『マリア・モンテッソーリ 子どもへの愛と生涯』をご紹介しました。
本書の「あとがき」にも述べられていますが、マリア・モンテッソーリの教育に対する深い洞察を読み取ろうとせず、特定のメソッドや教具のみに関心を持つ教育者や親が多いことが現実です。
本書を読むと、「それは非常にもったいない!」と思ってしまいます。
彼女の歩んだ教育者としての道のりや、モンテッソーリ教育を生み出し改善する飽くなき探求心を追体験することで、マリア・モンテッソーリの思考に近づけるのです。
ぜひ読んでみてください!
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