こんにちは、アマチュア読者です!
今回ご紹介するのは、岩根圀和『物語 スペインの歴史 人物篇 エル・シドからガウディまで』です。
スペインはアンダルシア、カスティーリャ、ガリシア(スペイン北西部)、アラゴン、カタルーニャなど独自の方言をもち、風俗や習慣を異にする地域が政治的に自治権を与えられています。
本書では、この特異な地域に生きた人物にフォーカスし、人間の営みとその時代の雰囲気を伝えることを意図して異なる時代、出身地、身分、職業において名を残した6人の著名人が取り上げられています。その6人とは、騎士エル・シド、女王フアナ、ドミニコ会士の聖職者ラス・カサス、『ドン・キホーテ』の作者セルバンテス、絵画の巨匠でピカソまでが師と仰ぐ画家ゴヤ、サグラダ・ファミリアの設計者であり建築家であるガウディです。
本書を読むと、これらの著名人の残した業績のみならず、その時代のスペインが持っていた息吹を感じられます。
人物に興味を持つことで、彼らが生きた時代や土地にも関心が湧いてくるものです。
セルバンテス、ガウディについては数かぎりない書籍が出版されているので、この記事ではエル・シド、フアナ、ラス・カサス、ゴヤに絞り、本書の内容を簡単にご紹介したいと思います。
騎士エル・シドの物語
北アフリカ総督ムーサの指令を受けたウマイヤ朝イスラムの勇将ターリックが、7000人のイスラム精鋭部隊を率いてスペインに侵入し、西ゴート族の王ロドリーゴを戴く西ゴート王国を瞬く間に陥落させたのは西暦711年のことでした。
上陸地点のアルへシラス(スペイン南端部)に上陸してから周辺の町々を攻略しながら内陸部に進軍し、ターリックの軍勢はコルドバ、マラバ、グラナダ、トレドといった主要都市を次々と征服していきました。
この侵略行為によって、スペインのほぼ全土がイスラム勢力の支配下に置かれてしまいます。
なお、ターリックが最初に上陸したアルへシラス湾の対岸にあたる420メートルほどの岩山は、「ジャバル・アル・ターリック」(ターリックの岩山)と呼ばれ、のちにジブラルタルに訛ったといわれています。
キリスト教徒側はわずかに豪族ペラヨの率いる少数部隊のみとなり、苦しい状況に陥ります。
この状態から戦争を通じて、キリスト教徒は徐々に国土を奪回していくのですが、相手のスペイン・ウマイヤ朝が内部分裂したことが追い風になりました。
国土回復戦争(レコンキスタ)と呼ばれるこの戦争において、レオンとカスティーリャの王アルフォンソ6世(在位1072~1109年)が有名ですが、この家臣がエル・シド(1043頃~1099年)です。
「エル・シド」は尊称で、本名はロドリーゴ・ディアス・デ・ビバールということがわかっています。
史実は明らかになってはいないものの、当初仕えていたアルフォンソ6世の不興を買い、カスティーリャ王国を追い出されてしまいます。
その後、イスラム軍を殲滅し、キリスト教徒軍とも戦ってイスラム王と敵対するバルセロナ伯を捕虜にするという無類の強さを発揮します。
アルフォンソ6世の勘気も解けて、ロドリーゴはカスティーリャに帰還するのですが、再び王の怒りを買い、またしても追放の憂き目にあってしまうのです。
この二度目の追放にかんしては、主君であるアルフォンソ6世と干戈を交えるという常識では考えられない事態になっています。
追放された身では、引き連れる将兵を養うためにイスラム教徒であれキリスト教徒であれ、自分の武力を好条件で買ってくれる側に身を寄せるのは心情です。
イスラム諸国を転戦するうちに、その武勇の噂が徐々に広まり、いつしかイスラム兵のあいだで賛嘆の意味を込めてアラビア語の尊称サイード(Sayiid)をもって呼ばれるようになりました。
それがシディ(Sidi)に訛り、スペイン語に入ってシド(Cid)となり、キリスト教世界に戻ったときに定冠詞のエル(el)がついて長く語り継がれるロドリーゴの通称となったのです。
英雄というと、どんな逆境に置かれても信念を貫き、王様に対して固く忠誠を誓うイメージがありますが、エル・シドの場合は現実的で、自分により高い価値を見出してくれる方を助けたというところに面白さがあります。
のちに文学作品として名高い『わがシッドの歌』(Cantar de mio Cid)で語られるエル・シドとはだいぶ趣を異にしている点は、本書で詳しく解説されています。
女王フアナの物語
レコンキスタを強烈に後押ししたのは、カスティーリャ王女イサベルとアラゴンの王子フェルナンドの結婚でした。
いまのスペインと呼ばれる地域において、1469年に起こった強国同士の結びつきはキリスト教徒の結束力を高めました。
1492年にはイスラム勢力の最後の砦グラナダを攻略し、711年に西ゴート王国を陥落させられてから700年以上の時を経て、スペインの地をイスラム教徒から奪回したのです。
イサベルとフェルディナンドの間に次女として生まれたのがフアナでした。
仇敵フランスを婚姻関係で包囲するため、王女フアナは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男フィリップ(フェリペ)のもとへ嫁ぐことになりました。
読書や音楽を好み、どちらかといえばインドア派のフアナに対して、フェリペはじっとしているのが苦手なタイプで、乗馬や武術に秀でており、外出することが多かったといいます。
それに加えて、端正な顔立ちで名を馳せていたフェリペには女性の影が絶えなかったようです。
そんな2人のあいだに長男カルロスが生まれました。
1500年2月24日のことです。
このカルロスが、スペインにおけるカルロス1世、神聖ローマ帝国のカール5世となるのですが、フアナとフェリペの仲は上手くいきませんでした。
嫉妬心の強いフアナはフェリペの浮気を疑い、悶々とした日々を過ごしていました。
1503年には次男フェルナンドが生まれますが、スペイン嫌いのフェリペは出産間近のフアナを残してフランスに帰ってしまい、フアナはしばらくのあいだスペインにとどまらざるを得ませんでした。
嫉妬心に燃えるフアナは一刻も早くフランドルに戻りたい気持ちを爆発させ、食を断ったり城内を徘徊したりと常軌を逸した行動をとるようになります。
念願かなって1年以上のあいだ留守にしていたフランドルに帰ってみると、夫のフェリペの心はフアナからいっそう離れており、それを見て取ったフアナの嫉妬の炎は凄まじいものとなりました。
床を踏み鳴らし、手の皮が裂けて血潮がほとばしるほど夫のいる部屋のドアを叩き続けたといいます。
フェリペは、フアナの父フェルナンドとの交渉を重ね、念願かなってカスティーリャ・レオンの王位を手に入れますが、同じ年である1506年にあっけなくこの世を去ります。
その後のフアナについては本書を読んでいただきたいのですが、その奇矯な言動が与えた影響により、亡くなるまでの46年間を城館に幽閉されて過ごすことになります
フアナについて描かれた絵画は、プラド美術館に所蔵されていますが、一度見たら忘れられないインパクトがあります。
なお、本章の最後に「ハプスブルクの顎」というコラムが掲載されており、カール1世とフェリペ2世の特徴的な下顎について考察がなされていて面白いです。
聖職者ラス・カサスの物語
ドミニコ会の聖職者であるバルトロメ・デ・ラス・カサスについて、本書では新大陸発見後にスペイン人がインディアス(西インド諸島、南米、北米の一部、およびフィリピン)の先住民インディオに対して戦争に訴えることが正当か否かをめぐっておこなわれる論争当日の描写からはじまります。
クリストバル・コロン(コロンブス)が大陸(インディアス)に到達した翌年の1493年、その領有に関して教皇アレクサンドル6世からスペイン国王に宛てに「贈与大勅書」が発布されました。
これによって、インディアスを正当に支配する権限が、キリスト教世界の最高権威者からカトリック両王のイサベルとフェルナンドに与えられ、その目的はインディオにキリストを知らしめ、インディオの心にキリスト教の信仰を確立し、そしてインディオをキリスト教に改宗させることでした。
ラス・カサスはこの勅令にしたがい、実際にインディアスでキリスト教の布教に努めました。
彼はすでに18歳のときに船団に加わってインディアスに渡り、19歳でエスパニョーラ島の征服に参加した経験を持ち、23歳のときにローマで司祭職を受けてからもインディアスの所領で農業経営や鉱山採掘を続けました。
そしてキューバ征服に従軍司祭としても参加し、その功績によりインディオの分配、すなわちエンコミエンダ(委託)を受けています。
しかしその結果は、インディオに対してやむことのない、残虐極まりない殺戮行為だったのです。
老若男女を問わず、凄まじい数のインディオがスペイン人によって虐殺されました。
エルナン・コルテスが1521年にアステカ帝国を征服したときも、フランシスコ・ピサロがインカ帝国を滅ぼした1533年にも同じようなことが行われています。
ラス・カサスはこの状況に絶望し、「自分たちがインディオの命を奪う権利があるのか」と考えるようになります。
そして、聖書のさまざまな聖句に力をもらい、ラス・カサスは「インディオに対するこのような行為が正義であるはずがない、インディオを奴隷状態から解放しなければならない」と生涯にわたってスペイン人に訴え続けるのです。
インディオを優秀なスペイン人に分配し、奴隷のごとく使役させることになったエンコミエンダ制のもと、ラス・カサスの計算ではざっと1200万人が死亡したといいます。
もちろん、このうちスペイン人がインディアスに持ち込んだ天然痘の影響も無視できませんが、多くのインディオが意思に反した苦しい労働環境の中で亡くなり、気まぐれに虐殺されたということは事実です。
ラス・カサスは、1542年にバリャドリッドで皇帝カルロスが臨席している前で、インディアスで目撃してきたインディオの悲惨な現状をつぶさに報告する機会に恵まれました。
そこで彼は、20項目の改善策を掲げて渾身の熱弁をふるいました。
この報告がのちに加筆修正され、有名な『インディアスの破壊についての簡潔な報告』として出版されるのです。
しかし当然のことながら、現状維持を望む人々からは反論され、激しい論争が巻き起こりました。
論敵のフアン・ヒネス・デ・セプルベタはカルロス一世(フアナの息子)の王室史官をつとめる気鋭の哲学者でした。
彼の考えは、「インディオは偶像を崇拝し、人間を生贄に捧げ、人の法に背いてあらゆる悪徳にふける野蛮人である。このように生まれつき愚鈍で無能力な人間は、より人道的で徳の高いスペイン人の支配に服従すべきである。」というものでした。
この二人の終わりなき論争のいきさつは、本書に詳しく書かれています。
根本的に異なる思想を持つもの同士がわかりあうことは容易ではなく、正義というのは星の数ほどあるのだと思わされますが、暴力に訴えることなく、自らの言葉のみを武器にしたラス・カサスの信念を貫く行動に感銘を受ける読者は多いはずです。
画家ゴヤの物語
フランシスコ・デ・ゴヤは1746年にサラゴサ近郊の寒村フエンデトドスで生まれました。
この寒村で金メッキ工を職業としていた父親は、都会の方が協会などから装飾品の注文が多く入るだろうと考え、ゴヤが8歳のときにサラゴサへと仕事場を移しました。
少年の頃からゴヤの才能は抜きん出ており、その腕前は、村の誰もが「この少年は画家になるのだ」と信じて疑わなかったほどだったといいます。
ゴヤ少年も画家を目指す意志を持っていたため、14歳からサラゴサの画家ルサンのアトリエに入り、4年間にわたって修行を積みました。
ここではおもに版画の模写を学び、デッサンの基本を身につけたといいます。
その後、イタリアに赴き絵画技術の習得にも努め、帰国して数年後、サンタ・バルバラ王室タピストリー工場の原画を描く職に就くことができました。
その絵画の腕は世間の注目となり、国王カルロス4世に拝謁する栄誉を得て、宮廷画家のひとりに加えられる栄誉にあずかりました。
ゴヤは宮廷画家として多忙な日々を送り、17年後にその職を辞するまでに、ゴヤは60点以上の原画を仕上げました。
しかし、そんなゴヤを病魔が襲いました。
彼は1792年、46歳のときに原因不明の病に冒され、体の麻痺をともなう激しいめまいと頭痛に襲われました。
生死の境をさまよい、半年近く病に伏せていたものの、辛くも一命をとりとめました。
しかし異常をきたしていた聴覚は回復せず、それ以来の30年を広大な無音の世界の中で過ごすことになったのです。
ゴヤの病状については専門家が長年にわたり研究を重ね、絵の具に使用する鉛の中毒や梅毒など様々な推測をおこなってきましたが、いまだにその原因は特定されていないといいます。
聴覚を失うまでのあいだ、ゴヤは幻覚や耳鳴りに苦しんだといいます。
しかしこの経験が、彼がのちに取り組むことになる『ロス・カプリチョス(気まぐれ)』をはじめとする版画作品や、暗い色調を帯びた一連の「黒い絵」として結実するのです。
ゴヤが生きていた19世紀初頭はスペインにとって激動の時代でした。
イギリスの同盟国であったポルトガルを攻略することを名目として、フランスからナポレオン軍がマドリードに攻撃を仕掛け、カルロス4世は急遽退位を宣言してしまいます。
代わって王位についたフェルナンド7世は、反目していた宰相ゴドイを投獄し、王妃マリア・ルイサの寵愛によって青年将校から宰相まで駆け上がったゴドイを憎んでいた民衆は多く、フェルナンド7世のとった行動を歓迎したといいます。
しかしスペイン占領を確固たるものとするため、ナポレオンはフェルナンドを国王と認めず、フランスのバイヨンヌに呼びつけて王位継承権を放棄させ、自分の兄であるジョセフをホセ1世としてスペイン王に任命してしまうのです。
ナポレオンのこの政策をめぐってマドリード市民が反旗を翻したのが1808年5月2日のことでした。
この反乱は、実質的にフランスに対するスペインの独立戦争開始を告げるものであり、その日の夜更けから翌日に至るまで、総司令官ミュラー指揮下のフランス軍がマドリード市民を射殺する銃声が響き渡りました。
圧倒的な戦力を擁するナポレオン軍に対して、ゲリラ戦を展開し応戦するスペインでしたが、徐々に追い詰められてきました。
しかしナポレオン軍がロシア遠征で苦戦し、スペインとの戦争に充てられるリソースが不足したことで、1813年にはスペインから撤退していったのです。
翌年にはホセが追放され、フェルナンド7世は6年ぶりにスペインの地を踏み、スペイン王に返り咲きました。
この年になってようやく、ゴヤは「マドリッド、1808年5月2日」と、その翌日にピリンシペ・ピオの丘でフランス軍に銃殺される市民をテーマにした大作「マドリッド、1808年5月3日」を描きます。
両作品ともプラド美術館のコレクションとして所蔵されていますが、特に後者には人気があり、プラド美術館を訪れるとその作品のまわりに人だかりができるといいます。
実物を目にした後に本書を読んで時代背景を知りましたが、この絵画の持つ意味をより深く理解できたように思います。
このほか、ゴヤの代表作のひとつである裸体画「裸のマハ」の来歴や社会に与えた影響についても解説されています。フェルナンド7世が嫌っていた宰相ゴドイの依頼で手掛けたこの作品の影響がどのようなものだったのか知りたい方は、ぜひ手に取ってみてください。
おわりに
今回は岩根圀和『物語 スペインの歴史 人物篇 エル・シドからガウディまで』をご紹介しました。
本書で取り上げられる6人の歴史的人物の生涯を読むと、彼らの生きたスペインの時代背景やスペインが辿ってきた歴史にも興味が湧いてきます。
読んだ後に好奇心が広がる本書をぜひ読んでみてください!
本書の姉妹編である『物語 スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』もおすすめの1冊です。
本書に登場する人物の多くが関わった時代が、より広い視点で描かれています。
併せて読むと、人物と時代の特徴が結びついてスペインの歴史がもっとおもしろく感じられるようになります。
こちらもぜひ!
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