【哲学を問い直す壮大な試み】ちくま新書『世界哲学史』シリーズ 全8巻+別巻

読書まとめ

こんにちは、アマチュア読者です!

今回ご紹介するのは、ちくま新書『世界哲学史』シリーズです。

哲学という言葉を聞くと、これまでは西洋、つまりヨーロッパと北アメリカを中心に展開されてきた学問体系が無意識に想起されるのではないでしょうか。

いま、この前提をあらためて問い直す試みがされています。

「哲学」という営みを根本的に組み変え、より普遍的で多元的な哲学の営みを創出する、この運動は世界哲学(World Philosophy)と呼ばれています。

「世界」という言葉が冠されているので、単純に地理的領域のことを指していると考えがちですが、その意味は時空を超えています。

人類が生きる場を考えるとき、地球から宇宙へ、現在から過去や未来へと対象は広がっていきます。

世界哲学とは、哲学において世界を問い、世界という視野から哲学そのものを問い直す壮大な試みのことなのです。

これほどスケールの大きいテーマで哲学を捉え直そうというチャレンジは、聞くだけでワクワクしてきます。

本シリーズでは、この世界哲学を歴史的に展開することを意図し、哲学史を個別の地域や時代や伝統から解放して世界化しようと試みています。

どのような思想であっても、世界の人々のあいだで哲学として論じられるには普遍性(universality)合理性(rationality)が暗黙の前提になっていますが、これら2つの概念はギリシア哲学から生まれたものだということに驚きます。

いったい私たちはどのようなバイアスのもとで哲学を考えていたのでしょうか。

そのバイアスが解消されたとき、哲学はどのような姿を見せるのでしょうか。

本シリーズは、古代から現代までの哲学史を総勢102名の知を結集して完成した大作です。

全8巻を通読したとき、私たちの世界観は大きく変わるかもしれません。

『世界哲学史1』

第1巻では、哲学が成立した古代の最初期が対象となっています。

人類が文明のはじまりにおいて世界と魂をどのように考えたのかを紀元前2世紀まで、いくつかの地域から見ています。

具体的には古代西アジア(メソポタミアやエジプト)、古代中国、古代インド、古代ギリシアが検討されています。

特に西洋哲学の発祥の地とされる古代ギリシアについては4章にわたり、多くのページが割かれています。

まず世界を考えるうえで、世界はどのように想像されたのかを物語る「世界創造神話」として、紀元前3000年紀中頃まで遡る諸伝承や、メソポタミアの中に位置するバビロンで紀元前2000年紀末期ごろに成立したエヌマ・エリシュが紹介されます。

ギリシャ神話や古事記と通底するストーリーがあり、非常に興味深いです。

神話的な物語には人間の創造に関する描写も頻繁に見られます。

たとえば太古の人類を襲った大洪水について語る神話アトラ・ハシス叙事詩では、支配層の神々に対して反乱を起こした下級の神々のリーダー「アウ・イラ」が処刑され、その血肉を混ぜた粘土から人間が生み出されたという記述があります。

下級の神々が反乱を起こしたのは賦役に対する不満が発端なのですが、この人間にその賦役を課すことによって下級の神々を労働から解放したという話になっており、人間中心主義を再考させられる内容です。

古代メソポタミアと古代エジプトを比較するだけでも、世界と魂の捉え方に大きな違いがあることに驚かされます。

一方で、古代イスラエルの世界観は旧約聖書が表しているように神の意志が大きく関わっています。

世界の秩序は自然に内在する法則によって整えられたものではなく、その法則によって維持されるものでもなく、神の意志によっているのです。

古代中国に目を向けると、紀元前8世紀から紀元前2世紀では諸子百家の時代でした。

諸子百家とは、中国の中原において展開された新しい学問の学派のことを指し、儒家(じゅか)、道家(どうか)、墨家(ぼっか)、名家(めいか)、法家(ほうか)などに分類されます。

諸子百家は、すべてを超越する神のような視点から世界を入れ物のようなものとみなし、人間や物をその中に配置してそれぞれの関係を考える発想自体を否定しました。

本書では『荘子』『孟子』『荀子』『論語』で取り上げられる世界観と魂論について言及しています。

孔子が『論語』で説く「仁」には、他者との道徳的なつながりがあるからこそ人間の生が基礎づけられるという態度がみられ、他者を重んじる考え方が顕著ですが、これは今日における個人から出発する前提の社会のあり方を揺さぶります。

古代インドでは奥義書であるウパニシャッドにおいて、魂に対応する言葉として「アートマン(自己や魂など複合的な意味合い)」が使われ、「アートマンとは何か」という議論が活発になったといいます。

アートマンは絶対者(ブラフマン)と究極的には一体となるという思想であれば、アートマンについての考察が深まるのも頷けます。

本書の後半では、哲学という言葉の発祥地である古代ギリシアに多くの紙幅が割かれています。

ソクラテス、プラトン、アリストテレスといったスーパースターはもちろん、その後に続くヘレニズム哲学についてもおもしろさがわかる書きぶりです。

本書の最後は、古代文明が繫栄したギリシアとインドの交流に焦点が当てられ、アショーカ王碑文ミリンダ王の問いが取り上げられています。

両者の思想のあいだで哲学的対話が成立したのか、相違点はどこなのかも検討されています。

『世界哲学史2』

第2巻では、前1世紀から後6世紀頃を時代範囲として、古代後期に哲学が世界化していく様子が多角的に検討されます。

「古代から語る」ことを基準とする古代ギリシアで成立した哲学はローマ世界に伝わり、キリスト教の普及と関係を持ちながらヨーロッパ世界の基礎が形成されていきます。

ローマに哲学が入ることによって、ラテン語はこの時代に哲学を担うことのできる言語にまで鍛え上げられ、その後1000年以上にわたって西洋哲学の共通言語となりました。

プラトンアリストテレス古典とみなされ、それまでアテナイを拠点としていた哲学の営みが地中海世界の各地に拡散していきました。

ローマの哲学として、ルクレティウスキケロセネカといった人物に焦点が当てられています。

インドでは大乗仏教が成立し、中国では信賞必罰の法家主導の政治につづき儒教の伝統が生まれ、古代文明の地ペルシアではゾロアスター教が確立します。

中国の哲学者たちが『荘子』「胡蝶の夢」をめぐり、自説に結びつける様々な解釈をしていますが、この方法は現在でも普遍的なものでしょう。

またこの時期にはキリスト教が成立したのち、ビザンツ帝国を経て東方へと広まり、西方のラテン語世界ではカトリックの中世世界が成立します。

古代キリスト教は哲学とみなせるのかどうかという興味深い論考もあります。

本書の冒頭では、古代と古典について考察されています。

一般的に古代とみなす時代の位置づけは、西洋文明の展開に即して考案された時代区分だということに気づかされます。

その間にそれぞれ異なる背景のもとで多様な哲学・思想が花開き、拡がっていったことを考えると、この期間を「西洋古代哲学」と一括りにする危うさを感じずにはいられなくなります。

一方で、古典はたんなる時代区分ではなく、見本とすべき一流のものと共通了解が「古典」という呼称を作ってきましたが、誰がいつ、どのような基準と意図で「古典」を設定したのかは近年さまざまな分野で見直しがされているといいます。

当たり前と思われている概念をゼロベースで問い直す姿勢が、本シリーズには共通しています。

『世界哲学史3』

第3巻からは中世に入り、年代としては7世紀から12世紀を中心とした世界が扱われています。

古代と中世を媒介するもの、西洋とイスラーム世界をまたいで文化的基礎となったのは、ギリシア哲学、とりわけアリストテレスだったことが本書を読むとよくわかります。

アリストテレスの著作はギリシア語からシリア語、アラビア語へと翻訳され、その過程で人々の知識体系に大きな影響を与えました。

アラビア語に翻訳されたアリストテレスの文献が、12世紀以降のスペインのトレドでラテン語に訳され、特異なルートで西洋全域に伝わっていくところにおもしろさを感じます。

ビザンツでの東方神学の成立、西方キリスト教世界での教父哲学と修道院が発展した結果、西欧世界は12世紀に文化興隆を迎えます。

先人の積み上げてきた偉業を「巨人の肩に乗る」と表現したのはニュートンだと思っていましたが、ソールズベリのヨハネス(1115/20頃~1180)が著書『メタロギコン』のなかで、シャルトルのベルナルドゥスという人物の言葉を借りて、次のように書き記しています。

シャルトルのベルナルドゥスは、われわれはまるで巨人の肩に座った倭人(わいじん)のようなものだと語っていた。すなわち、彼によれば、われわれは巨人よりも多くの、より遠くにあるものを見ることができるが、それは自分の視覚の鋭さや身体の卓越性のゆえではなく、むしろ巨人の大きさゆえに高いところに持ち上げられているからである。

一方で、7世紀にはムハンマドが開いたイスラームの影響が広がるとともに、様々な宗派が生まれ、独自のイスラーム哲学がはじまります。

中国では仏教と儒教と道教が交錯し、インドで展開された形而上学が東アジアの視点で論じられます。

日本に目を向けると、平安初期に登場した空海が、それまで儒教中心であった社会に密教という新たな光を持ち込み、朝廷で儒教と仏教が共存する体制に寄与したインパクトに驚かされます。

本書には難しい内容も少なくないのですが、ときおり見つかるキャッチ―な言葉に魅了されます。

「あとがき」に書かれている哲学のおもしろさには勇気をもらえます。

「哲学(フィロソフィア)」という語が古代ギリシアに淵源するとしても、哲学は、人間でしかありえない者が人間でありながらも人間であるままに充足しないあり方である。そしてそのあり方は普遍性を備えたものなのである。

『世界哲学史4』

第4巻では中世の末期にあたる13世紀から14世紀が対象となります。

13世紀は中世盛期ですが、中世という名称そのものが西洋の古代と西洋の近世との中間という概念上の起源をもっています。

したがって、中世という言葉を使うとき、わたしたちは西洋という地域への眼差しに拘束されていることになるのです。

12世紀が成長の時代であり、13世紀は西洋中世の最盛期でした。

その時代は歴史の配置のうえで何を意味するのか。

哲学史の流れも流れもそれに呼応して動いていったのか。

それを解明するのがこの巻での目的の一つになっています。

この時期には、都市の発展、商業の成長、教育と大学の発展、托鉢修道会の成功など、ヨーロッパは西端の一地域であることにとどまらず、世界史という舞台の中心に歩を進めていきます。

都市の成長は、托鉢修道会の活動、大学の発達、経済活動の隆盛に深く結びつくのみならず、人間の精神のあり方にも大きな影響を及ぼしたことが本書を読むとよくわかります。

スコラ哲学ではトマス・アクィナス、ウィリアム・オッカム、ドゥンス・スコトゥスがインフルエンサーとなります。

「この世界に実在するものは、徹底的に個物でしかない」という唯名論は、「この世界に実在する個物のうちに、普遍が実在的に内在する」という実在論と対局なすものであり、普遍を基底とする全体論的哲学から個物を基底とする個体論的哲学へという転換を引き起こします。

本書では唯名論と実在論について説明した後、唯名論的な哲学としてオッカムとビュリダンを取り上げています。

ビュリダンの社会共同体論における「共同体全体を優先的に考えるのではなく、むしろ、その共同体を成立させているひとりひとりの人間同士の関わり合いを優先する」という視点は、現代社会でも通用するものであり、組織ではたらくビジネスパーソンにとっても一読する価値があります。

西洋中世哲学では、唯名論と実在論が隔絶しているわけではなく、お互いを補って中庸におさまっている印象を受けます。

イスラーム地域に目を向けると、アヴィセンナ(イヴン・シーナー)ガザ―リーといった哲学者が活躍します。

9世紀にアッバース朝はカリフや有力者の後援によって先進的なギリシアおよびペルシアの知識をアラビア語に翻訳し始めました。

その中でひときわ目を惹くのが哲学(ファルサファ)と呼ばれる文献群であり、その中心にはアリストテレスがいました。

12世紀から13世紀頃には、イスラーム世界を経由し、アリストテレスのほとんど完全な著作集がラテン語に翻訳されました。

イスラーム世界やヨーロッパの哲学の対象はアリストテレスといっても過言ではないほど、その影響力は絶大なものでした。

この時期の哲学者たちはアリストテレス哲学を受容し、学びつつもそこにとどまらず、独自の哲学を発展させていったことが本書に書かれており、大変興味深いです。

中世ユダヤ思想も重要な役割を果たし、中国では朱子学が、日本では鎌倉仏教の諸派が花開きます。

江戸時代に日本の思想に大きな影響を与えることになる朱子学は、すでにこの時期に芽吹いていたのです。

その土壌は科挙の再開と仏教の影響にあったことが本書で述べられており、腹落ちする内容です。

日本においては、法然、栄西、明恵、道元、親鸞、一遍など数多くの大思想家が現れ、辺境の地でありながら哲学的激流が生じていた時期でもあります。

『世界哲学史5』

第5巻は中世から近世に移行する15世紀から17世紀、バロック時代が扱われます。

この時代は人類史上から見て、ひとつの激動の時代でした。

大航海時代、活版印刷技術の発明、宗教革命、ルネサンスなど大きな歴史上の事件が頻発しました。

本巻では、16世紀から18世紀半ばまでを指す語として「近世」を用い、その後の「近代」と区別しています。

本書の冒頭で、世界史全体を見渡した場合に中世と近世の時代区分は妥当なものなのかという問いかけがなされています。

西洋においても、中世という名称は、近世における文化の再生という前提をもち、古代と近世に光があって、中世は暗黒の時代であるという先入観に支配されているのが現状です。

反対に、中世に黄金期を設定する立場から見ると、近世以降は衰退と没落の過程であり、近世を準備した思想は中世の秩序の破壊者とみなされ、憎まれたといいます。

その典型が、4巻で登場した唯名論者であるウィリアム・オッカムです。

中世末期の16世紀を支配していた哲学は後期スコラ哲学でしたが、そこでは「古来の道」(「トマスの道」および「スコトゥスの道」)と「近来の道」(「オッカムの道」)に分かれていました。

宗教改革者の代名詞ともいえるマルティン・ルターが受けた教育は「近来の道」であり、オッカムの弟子を自認する言葉も多くみられるといいます。

一方で、その次世代のジャン・カルヴァンはパリ大学で「古来の道」(「スコトゥスの道」)の影響を受けているのはおもしろいところです。

中世と近世の区分を宗教的支配から世俗権力への移行と捉えるとしても、ラディカルな変化が設定される必要があります。

時代区分の再検討をおこなう有力な視点が世界哲学史であり、それはローカルな局所性が自らの特異性を発揮することのなかに普遍性を宿していることを示す試みです。

本書の第1章において、「世界哲学史」シリーズの編者でもある山内志朗氏の次の言葉が印象的です。

現代に生きるわたしたちにとっては、心の奥まで響きます。

その後の哲学史に華々しい名を残すかは、政治的影響力の盛衰に影響されることが多いのである。理論そのものの時代を超えた輝きに心を奮わせることができなくなれば、哲学は死ぬ。

スペインではキリスト教神秘主義が興隆を迎え、その代表的人物であるテレサヨハネが取り上げられます。

現代では神秘主義というと、非合理的で哲学より神学の対象、そうでなければ文学や詩学の対象とみなされがちです。

しかし、哲学(フィロソフィア)が元来、ギリシア語で「知恵(ソフィア)」「愛する(フィレイン)」という語義を持つことを思い起こすと、この捉え方が変わってきます。

日本の明治初期に哲学という訳語を造った西周は、フィロソフィーを当初「希哲学」と訳しました。

後に落ちてしまったこの「希う(こいねがう)」という言葉に注目すると、「知に関して完全である状態と、われわれ人間の現状との間の距離を自覚し、それでもなお完全な状態へと近づこうとする中で現れる謙虚さと羨望」という松浦和也氏が第1巻第6章において、古代ギリシアの「哲学」の本質的要素を捉えた言葉のなかに、神秘主義も含まれる可能性が生まれます。

こういった既存の先入観を問い直す世界哲学の試みは、読者にも多くの学びを与えてくれます。

ルネサンスに目を転じると、文芸復興とみなされがちな時期にはスコラ哲学の近世的発展を含んでいたことが明らかになります。

イグナチオ・デ・ロヨラを中心とするイエズス会は1543年に結成され、布教のために中国や日本に進出しますが、そこでは哲学交流も生まれます。

ヨーロッパではデカルトホッブズらの西洋近代哲学が大衆に受け入れられ始めます。

ホッブズというと代表作『リヴァイアサン』における思考実験で展開される「万人の万人に対する闘争」という自然状態における人間観が浮かびますが、自然哲学でも同時代の哲学者に大きな影響を与えました。

本書でのデカルト、ホッブズ、スピノザ、ライプニッツの哲学観とそれぞれの関係性についての考察は非常に読み応えがあります。

本書の後半には、東洋の朱子学と反朱子学などの東アジア哲学の動きも描かれます。

それまで朱子学一強ともいうべき状況に変化をもたらしたのは、15世紀末に登場した王陽明「陽明学」でした。

理の根拠は人間の心のうちに存在するという陽明学の考えは、朱子学と同様に日本にもたらされ、荻生徂徠太宰春台によって独自の展開を見せます。

一般的に日本の江戸時代を考えるとき、わたしたちは日本だけに焦点を当てて歴史をとらえようとしますが、本シリーズのように同時代に世界各地を横並びに眺めることで新たな発見が得られます。

「世界の中の日本」という視点で歴史を振り返ると、これまでとは違った日本が見えてきて刺激的です。

『世界哲学史6』

第6巻では、18世紀における近代の哲学が各方面で論じられます。

近代での西洋世界の文明上の優位は、17世紀(近世)における科学革命から始まって、18世紀の(イギリス、アメリカ、フランスにおける)政治的な大革命、19世紀の産業革命の帝国主義的植民地化という形で加速化し、地球全体の規模へと拡大しました。

哲学という学問的営みは、西洋におけるこの文明上の優位と強く結びついていたために、日本においても明治維新とともに本格的に輸入して発展させようとした哲学は西洋の哲学でした。

本巻におけるキーワードの1つは「啓蒙主義」です。

西洋近代の啓蒙の思想は、イギリスにおける名誉革命、アメリカの独立戦争フランス革命という、18世紀に連続して生じた西洋世界の最大級の変革に影響をおよぼすような政治思想上のバックボーンの役割を果たしました。

本書を読むまで気づきませんでしたが、西洋におけるこういった政治上の革命的激動は、日本では江戸時代に生じた世界史的に特筆すべき大事件ですが、鎖国していた当時の日本社会ではこの出来事はほとんど知られていませんでした。

18世紀に大変革を経験した西洋社会は、その後の大規模な産業革命と帝国主義的植民地政策を通じて、地球規模での覇権を確立したため、間接的な影響として啓蒙主義的な政治理念を世界の隅々まで伝えることになりました。

このことは、西洋近代から現代へといたる世界の歴史にとって、大きなターニングポイントであり、非西洋世界に啓蒙主義的思想のかかげる人権思想や民主主義の理念が、後世において世界の広い地域でさまざまな形で採用されることになりました。

20世紀に生じた数々の世界大戦や植民地独立戦争の場面でも、西洋の啓蒙主義的な政治思想の果たした役割はとてつもなく大きなものだったのです。

本巻では、イギリス、スコットランド、フランスの啓蒙思想、アメリカでの植民地独立の思想が論じられます。

世界哲学史シリーズ全8巻において、歴史にアメリカという大国の礎が刻まれるのが漸くこの時代であることに驚きます。

西洋近代哲学の理性偏重に初めから強い違和感を覚えていたアメリカの新興思想であるプラグマティズムでは、デカルトの懐疑論は否定され、人間の認識作用と実践的活動との連続性が強調されますが、これは別の角度で見ると、理性と情念の関係について情念の側に優先性を主張していることになります。

理念を実践に移すことに重きをおくプラグマティズムは、人間の状況は人間自身の手によって解決可能であるという強い信念があります。

それは植民地からの独立と密接に関わっており、アメリカのアイデンティティになっています。

一方で、18世紀末にヨーロッパではカントによる批判哲学が、イスラームでは啓蒙思想が繰り広げられ、中国では清朝の哲学が、日本では江戸期の哲学が展開されます。

カントが「啓蒙とは何か」(1784年)という論文の冒頭で、この問いに対する回答を端的に提示しており、この言葉は現代社会に生きるわたしたちの心にも響きます。

啓蒙とは、人間が自ら招いた未成年状態から脱け出すことである。

啓蒙についてのカントの言葉を受けて、同じくドイツのフィヒテがカントを超える哲学を生み出そうと奮闘するところに、哲学史のおもしろさがあります。

この時代の多くの地域において、理性と感情のどちらが優位なのか、理性と感情のどちらが人間の自然にとって本来の能力であるというべきなのか、といったことが議論されているのは非常に興味深いです。

この議論が18世紀だけでなく、今日の世界でも問い続けられている生きた哲学的テーマであることにも面白さがあります。

英語で知性主義をあらわすintellectualismは、プラグマティックな思考の伝統が強いアメリカではあまり良くない意味で用いられており、反知性主義こそ人間のあるべき姿であるとみなされることが多いです。

フランスにおいてもパスカルのいう「繊細の精神」の意義を高く評価されていることもあり、「デカルト主義者」という言葉は歓迎すべき呼称ではないといいます。

しかし日本の場合、反知性主義という言葉にはどちらかというとネガティブなイメージが付きまといます。

このように、理性と感情のあいだにある複雑な関係を世界哲学史という観点でとらえなおし、丁寧に吟味することは、わたしたちの未来にも関わることなのです。

『世界哲学史7』

第7巻では自由と歴史がメインテーマになっています。

哲学にとって、自由とは何かというのは根本問題の1つに数えられます。

自由であるということが基本的に人間という存在者にだけ属しているために、哲学が人間存在の本質を理解しようとするならば、人間という存在者に特有の性質である自由とは何か、ということが問題になるのです。

西洋近代哲学の基礎を築いた17世紀のルネ・デカルトは、人間精神のもつ自由は2種類あると考えました。

「自発性の自由」「無差別な選択の自由」です。

19世紀の思想家は、伝統的な哲学に見られる個人の人間精神のはたらきに即して考えるのではなく、歴史や進化という時間的な変化や発展といった外的事象にかんして自由を考えていました。

またこの時代には、上記の2種類の自由のほかに、自己コントロールを通じた自己形成という別種の自由を求める方向性が生まれました。

特に新世界アメリカにおけるプラグマティズムという哲学は、習慣による自由を標榜し、理論に終始するのではなく行動による実践を重要視しました。

ヨーロッパに目を向けると、文化的に後進的な位置にあったドイツでは国家意識が芽生え、19世紀のロマン主義は西洋近代批判につながります。

歴史的英雄たち(アレクサンドロス大王やユリウス・カエサルなど)の華々しい冒険と滅亡に重きをおくロマン主義的傾向は、文芸や絵画の世界に大きな影響を与えました。

イギリスでは歴史的進展の無目的性、偶然性、非決定性を強調するダーウィンの進化論が生まれ、神学的自然観や歴史の目的論的解釈を徹底的に否定することになります。

「進化論」という言葉は人口に膾炙していますが、『世界哲学史』シリーズを通読すると、この思想がいかに大きな衝撃を与えながら世の中に拡散していったのかがより深くわかるようになって面白く感じられます。

本巻では、フランスでのナポレオンと哲学の関係も取り上げられており、ナポレオンが陸軍士官学校を出たあとの砲兵少尉の時代から、プラトンの『国家』やルソーとカントの政治哲学に強い関心をもっていたというエピソードが紹介されています。

ほかにも、カントに感化されて自由の理念に従って哲学の体系を打ち立てようとするフィヒテの奮闘や、ショーペンハウアーからニーチェへの系譜、フランスのスピリチュアリスム、インドの近代哲学、公式に開国して西欧の影響を大きく受けた日本の近代哲学といった魅力的なトピックが扱われます。

日本では、明治末期から大正にかけての「文明」と対立しながら「文化」が新たなキーワードになり、教養ブームが巻き起こります。

教養派の人々は、西洋を急速に模倣し物質的な欲望を増幅させることへの批判として、文化の所産を幅広く鑑賞することをつうじて、人格を向上させていく自己陶冶の営みを「教養」と呼びました。

本巻の第10章にある、文明と近代日本の関係についての論考は、これからの未来を生きる日本人に勇気を与える書きぶりです!

『世界哲学史8』

最終巻の第8巻では、現代でもはや前提となっているグローバル化での知のあり方が多面的に検討されます。

第一次世界大戦、第二次世界大戦、その後の冷戦構造にたいして、「西洋の近代哲学の礎であったはずの「理性」が戦争や分断を引き起こしたのではないか」、という苦い問いかけが哲学の世界で起こりました。

本巻では、「理性とその他者」に焦点を当てて多くのページが割かれています。

理性がその他者として周辺化してきたもの、たとえば感情や無意識、身体、宗教の見直し、あるいは人間中心主義的な理解が抑圧してきた生のあり方や環境、共生を再考する試み。

こういった考察は、現代社会で何が問題になっているのか、そしてこれからの社会はどうなっていくのか、どうしていきたいのかに興味を持つ方には学ぶことの多い内容だと思います。

人間の思考における宿命である二項対立が抱える陥穽、「相手に道理を説くことも自分が道理を持つことも望まず、ただ自分の意見を押しつけようと身構えている」大衆の無責任な凡庸さ、批評の再定義といった現代思想も論じられます。

イスラーム、中国、日本など東アジアの現代、最後にアフリカ哲学の可能性が検討されます。

西洋近代哲学において蚊帳の外におかれていたアフリカ哲学には、祖先や呪術が世界の基底的な構成要素として認識されており、西洋だけでなく日本から見ても注目すべき世界観です。

本巻の第10章「現代のアフリカ哲学」を執筆した河野哲也氏の次の言葉は、哲学についてネガティブな固定観念を持っている方にとっても、哲学の可能性や面白さを感じられるのではないでしょうか。

哲学とは、書籍を読むという一方向的な解釈に終始してはならない。哲学が書籍で完結すべきもの、一人の人間の独白的な言説であるべきものと考えるのは、むしろ西洋近代的な偏向である。哲学とは他者をも巻き込む対話の運動であるはずである。

『世界哲学史 別巻』

じつは、本シリーズには別巻があります。

『世界哲学史』全8巻をとおして、古代から現代までの哲学史を総勢102名の知を結集させて完成した本シリーズを、編集委員と専門研究者で振り返ります。

この別巻では、まず編集委員が全8巻で明らかになった論点を検証し、これからの哲学に向けてをテーマに論じ尽くされていない課題を明らかにします。

「単純な原理が最初にあった」という発想は西洋の伝統であるという話や、政治や科学技術の後追い的な役割に成り下がってしまった哲学がもう一歩先に行くために、哲学で考えることの意味は何なのかという議論は、読んでいて非常におもしろいです。

さらに、『世界哲学史』シリーズの残された課題について、編集委員と13人の専門研究者で考察していきます。

副題の未来をひらくに違わず、哲学の未来に向けての課題を幅広く論じる『世界哲学史』のシリーズの総決算であり、未来への足掛かりでもあります。

おわりに

今回は、ちくま新書『世界哲学史』をご紹介しました。

全8巻の構成で世界哲学史を築き上げようとする、本邦初の試みがなされています。

私たちに馴染み深いものとなっている西洋哲学を介して、それに対抗し、別の可能性を開く諸々の哲学を視野に収めることで世界哲学の意義を感じられ、読者の世界を観る眼も変わります。

わかりやすく、すぐに手にはいるものを好み、意味だけを追い求める傾向にある私たちにとって、本シリーズは「割り切れないような何か」を無限に追い求められるのが人間の特権なのだと気づかせてくれます。

各巻の各章のおわりには、さらに詳しく知るための参考文献が掲載されており、興味を持った哲学分野を深掘りできます。

読み進めるほどに世界哲学という試みの素晴らしさを感じられます。

本当におすすめです!

ぜひ読んでみてください!

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