こんにちは、アマチュア読者です!
今回は、庶民に目を向け続けた民俗学者 宮本常一のおすすめ名著をご紹介します。
著者は1907年に山口県で生まれ、小学校教師として教壇に立ったのち、民俗学を志します。
昭和14年から思いつくままに日本全国を歩いてまわり、学問の土台を築きますが、戦争激化のためフィールドワークを中断せざるを得なくなります。
戦後はふるさとに帰ってしばらく百姓として働きますが、農業技術に関する見識を深めたことが後の民俗調査に生きることになります。
民俗学に専心するなかで、民俗誌よりも生活誌を大切にするべきだという信念が醸成され、自然とともに生きる庶民の生活そのものの中に、生きる明るさやたくましさを捉える独自の民俗学を打ち立てようと決心します。
日本各地の村を訪ね歩き、倉庫に収めてある文献に目を通しながらも、そこに生活する人々の生の声を聞きとり、詳細な記録と丁寧な考察によって数々の著作を刊行しました。
「宮本民俗学」とも謳われる著者の作品は、庶民に対する温かなまなざしが感じられるとともに、何気ない日常の生活の中にこそ学ぶべきことがあるのだということを教えてくれます。
『民俗学への道』
著者を捉えて離さなかった民俗学とはどのようなものなのか。
本格的にこの学問に足を踏み入れてから、著者はどのような道のりを歩み、その先に何を望んでいたのか。
本書ではこういった興味に関連して、前半は民俗学の概説や日本の民俗学が果たしてきた業績が客観的に記され、後半は著者が民俗学という学問を生業とするようになった経緯やフィールドワークの様子が時系列で書かれています。
民俗学は、かつて文字をもたなかった民衆社会における文化伝承の方法であった言葉と行為を記録し、これをもとにして文化の源流をたどり、文化の類型や機能を研究する学問であると著者は説きます。
実際には無字社会は消滅してしまっているのが現状であり、無字社会の伝統を持つ社会の中から慣習によって維持されている文化を研究がされています。
一般的には過去の支配者、とりわけ武士階級にとって、文字を理解できない農民や漁民は愚昧の民とみなされ、軽蔑されていたと考える向きがあるかと思います。
民衆の歴史の多くは、納税や苦役の義務を負わされた農民や漁民が支配者に抵抗する形で一意的に捉えられる傾向が色濃く残っています。
しかし、著者は民衆の日常の生活感情というものは、それだけで明らかになるものではなく、民衆の生活の中に入り込み、同じような感覚をもち、一度はその生活を肯定して見なければわからないと考えていました。
本書では、著者が文化的な伝統の残る村落に足を運び、自分の目で生活ぶりを見て、村人たちに話を聞き、その土地に現存している文献を渉猟することではじめて見える民衆の営みが数多く紹介されています。
先入観にとらわれずに自分の足で日本各地を歩きまわり、特色ある文化や共通する伝承について著者の実体験をふまえて書かれた研究記は、非常に読み応えがあります。
『民俗学の旅』
著者が民俗学の学徒として世間から評価されるようになったのは、幼少時に祖父母や父母、郷土の人々から得た教訓や体験が大きく関わっていると著者は振り返ります。
土を耕し種をまき、草を刈り木を伐り、穀物を脱穀し米を搗き、百姓の子どもとしておこなわなければならないことを身体で覚えたことが、体験の学問、実践の学問と捉えられる民俗学に取り組むうえで活きているのです。
本書『民俗学の旅』では、著者の家族とのエピソードや、社会に出て郵便局員や小学校教師として働いていた時期の思い出、師と仰ぐ柳田国男や渋沢敬三との民俗学をめぐる深い関係について、著者の視点でわかりやすく書かれています。
大事なところで記憶に残る言葉をかけ、また旅を愛した父親、優しく育ててくれた母親に対する感謝の念は行間から読み取ることができます。
「人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ」
「うれしいにつけ、苦しいにつけ、ふるさとのことを思い出せ。困ったときにも力になってくれるのはふるさとだ」
父親からかけてもらったこういった言葉は、ずっと心の中に生きていたと著者は語っています。
本書の後半は戦前、戦後に実施したフィールドワークや農村での農業技術指導など日本各地を歩いてまわった著者の奔走振りがよくわかる内容で、実に多くの人々と関わりながら民俗学に従事していたことが伝わってきます。
著者が影響を受けた本も多く紹介されています。
郵便局員時代に先生から「読んでもわからないだろうが何回も読むことだ。何回も読んで考えているとだんだんわかってくる」と言われて渡された西田幾多郎の『善の研究』や、ピョートル・クロポトキンの『相互扶助論』、思想家の大杉栄が翻訳した『ファーブル昆虫記』、肺浸潤で長期療養生活を余儀なくされた際に拠り所となり半分の歌は覚えてしまったという『万葉集』はその一例です。
論理性がなく、感激すると自他の区別がなくなってしまうと自らを評し、文学の先生から「ブレーキのきかない男だ」と言われた著者の話を辛抱強く聞く柳田国男や渋沢敬三を想像してしまうエピソードも織り込まれており、著者の人となりがよくわかる作品です。
先にご紹介した『民俗学への道』と併せて読むと、著者の歩んだ半生と民俗学にかける情熱と行動力に目を開かされます。
『ふるさとの生活』
本書は、日本人の生活の歴史を子どもたちに伝えることを主眼としています。
著者は小学校教師としての経験から、ふるさとに関する知識を習得し、理解を深めることが子どもの人間形成に不可欠であると主張し続けました。
小・中学生を対象に、読者にやさしく語りかける丁寧な文体で書かれていますが、著者が戦中戦後の約十年にわたって日本各地を歩いて村の成り立ちや暮らし、古くからの慣習、年中行事が詳細にまとめられており、大人こそ読むべき名著だともいえます。
仮名遣いが意識されるとともに難しい慣用表現が避けられ、理解の助けになる挿絵も多く使われているのでとても読みやすいです。
暮らしの中にも歴史があり、わたしたちは先人の果たした大事な仕事の恩恵にあずかって日常生活をおくっているのだと気づかされます。
本書を読み通したとき、著者のつぎの言葉は読者の心により深く染み入るはずです。
村を、今日のようにするためにかたむけた先祖の努力は、たいへんなものであったと思います。その努力のなかにこそ、のこる歴史があったのでした。私たちは、いつでもその人たちの前進しつづけた足おとがきけるような耳と、その姿の見えるような目を持ちたいものです。
宮本常一『ふるさとの生活』
『忘れられた日本人』
伝承者としての老人の姿を描いてみたいと思い、著者が書き始めた本書は、村の寄りあい、年配者同士の世間話、帰ってこない子どもの捜索、若い頃に奔放な旅を経験した世間師(せけんし)の話など、現代社会から見て非常に興味深いテーマにあふれています。
農業や漁業を中心とする生活を営んでいた庶民に着目し、自然に親しむ素朴な姿が生き生きと浮かび上がってくる文体は、著者の地道なフィールドワークの賜物です。
全体を通じて、文字が伝わらなかった村落の中で年配者はどのような日常を送っていたのか、村落という共同体が果たしていた役割はどういったものだったのかを知ることができます。
村の寄り合いについての論考は印象的で、その社会に生きていた人々の知恵が感じられます。
村で問題ごとが起こると、何十人もの人が会場に集まり、何日もかけてじっくりと話し合い、全員が納得したうえで結論を出していました。
用事のある者は家に帰ることもありますが、村の長は聞き役・まとめ役としてそこにいなければなりませんでした。
私的な事情が深く関わる共同体の生活では、論理的にものごとを解決するには収拾がつかず、自分の体験にことよせて話をするのが相手にも伝わりやすく、自身も話しやすかったに違いないと著者は考えています。
話の中にも冷却の時間をつくり、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成者が出るとまたしばらくそのままにしておく。
問題ごとについて全員が考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるという方法は、その社会においては非常に理にかなっていたのではないかと思わずにはいられません。
共同体としての知恵が失われてしまった結果は、現代社会で陰に陽に表面化しているのだと感じさせられます。
『庶民の発見』
本書には、すでに過去の中に埋没してしまっている庶民の歴史がまとめられています。
著者が日本各地を歩いてまわったなかで接してきた庶民の生き方をはじめ、庶民が生活を打ち立てるために人々はどのような考え方を持ち、後の世代をどのように教育し、その人々はどのように受け継ぎ、発展させていったのかが綴られています。
村をよくしたいと願う純朴な庶民の姿勢が伝わってくる言葉が数多く引用されているのですが、著者が西条高原の西高屋で出会った石工の話には特に心を動かされます。
金をほしうてやる仕事だが決していい仕事ではない。ことに冬など川の中でやる仕事は、泣くにも泣けぬつらいことがある。子供は石工にしたくはない。しかし自分は生涯それで暮らしたい。田舎をあるいていて何でもない田の岸などに見事な石のつみ方をしてあるのを見ると、心をうたれることがある。こんなところにこの石垣をついた石工は、どんなつもりでこんなに心をこめた仕事をしたのだろうと思ってみる。村の人以外には見てくれる人もないのに…
宮本常一『庶民の発見』
しかし石垣つみは仕事をやっていると、やはりいい仕事がしたくなる。二度とくずれないような…そしてそのことだけ考える。つきあげてしまえばそれきりその土地とも縁はきれる。が、いい仕事をしておくとたのしい。あとから来たものが他の家の田の石垣をつくとき、やっぱり粗末なことはできないものである。まえに仕事に来たものがザツな仕事をしておくと、こちらもついザツな仕事をする。また親方どりの請負仕事なら経費の関係で手をぬくこともあるが、そんな工事をすると大雨の降ったときはくずれはせぬかと夜もねむれぬことがある。やっぱりいい仕事をしておくのがいい。おれのやった仕事が少々の水でくずれるものかという自信が、雨のふるときにはわいてくるものだ。結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、あとから来るものもその気持ちをうけついてくれるものだ。
宮本常一『庶民の発見』
おわりに
今回は、庶民に目を向け続けた民俗学者 宮本常一のおすすめ名著をご紹介しました。
庶民の生活の中にある歴史の尊さが感じられるとともに、翻って「自分はどのような生活を送りたいのか」「これから生まれてくる人たちにどのような生活を送ってほしいか」を考えさせられる作品ばかりです。
この機会にぜひ読んでみてください!
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