【本当の人物像をファクトチェック】呉座勇一『戦国武将、虚像と実像』

歴史

こんにちは、アマチュア読者です!
今回ご紹介するのは、呉座勇一『戦国武将、虚像と実像』です。

タイトルにある通り、本書では戦国時代に活躍した武将の人物像に焦点が当てられています。

信長は革命児、秀吉は人たらし、家康は狸親父。

こういったイメージをお持ちの方は多いのではないでしょうか。

実はこういった人物像は確固としたものではなく、時代の移り変わりによって変遷を辿っています。

儒教思想が尊ばれた江戸時代には、臣下が主君に仕えることが当然であり、謀反を起こすという考えは御法度でした。

一方で、明治維新を経た日本は帝国主義に価値を置くようになり、富国強兵が至上命題になります。

このドラスティックな価値観の転換によって、日本人にとってはお馴染みの戦国武将の人物像が大きく変わっているのです。

歴史というと暗記科目の印象がついてまわりますが、学校で使う歴史教科書の影響力は良くも悪くも限定的なものです。

世間一般の人が抱く日本の歴史とはこういうものだという認識(大衆的歴史観)は、歴史小説や時代劇といった娯楽作品を通じて形成されてきました。

これは戦後になって始まった現象ではなく、江戸時代の庶民も歌舞伎や浄瑠璃を通じて歴史を学んでいました。

本書では、有名な戦国武将に対する世間の認識と、時代が変わっていく中での彼らの評価の変遷、さらに歴史学的に見た人物像が丁寧に説かれています。

たとえば、織田信長の「革命家」とみなされる事業は果たして本当なのかが検証されています。

長篠の戦いでの鉄砲三段撃ち(輪番射撃)第二次木津川口の戦いでの鉄甲船(てっこうせん)といった信長の軍事革命については、歴史的事実ではないという見解が歴史学における主流であるといいます。

それだけではなく、楽市楽座に代表される信長の経済政策についても疑問が生じているようです。

「座」というのは、天皇家・摂関家・大寺社などの「本所」によって特定の商品の独占販売権を与えられた特権商人の集団のことです。

米なら米座、油なら油座という具合で、彼らは本所への上納金と引き替えに独占権を得ていました。座のメンバーにならないと商売ができないので、座は価格や生産量、販売地域などを共同で決定するカルテルのような機能を果たしていました。

こうした座の特権を取り上げて、誰でも自由に商売ができるようにしたのが、いわゆる楽市楽座です。

しかし、信長が自分の領国全体に楽市楽座政策を展開した形跡は見られず、軽物座(かるものざ、絹織物などの衣料を独占的に販売していた座)や唐物座(からものざ、中国から輸入した薬種を扱う座)といった座に対して旧来の特権をそのまま保証していたといいます。

加えて、大規模な座が集中していた日本最大の都市である京都においても、織田信長は座を解体していません。

革命家の代名詞として思い浮かぶ織田信長ですが、実は既存のシステムを根こそぎ否定するのではなく、むしろ既得権者と折り合いをつけて、漸進的な改革を行っていたのではないかという見解には目から鱗が落ちます。

本書では、織田信長だけでなく、豊臣秀吉、徳川家康、石田三成、真田幸村などの戦国武将に対して一般的に考えられている人物像が、歴史学の観点からファクトチェックされています。

歴史小説や時代劇では、歴史的に著名な人物たちが舞台で輝きを放ち、生き生きと活躍します。

読者や視聴者はこの魅力に引き寄せられて、「歴史っておもしろい!」と感じますが、ストーリーの内容が事実なのかフィクションなのかについては、なかなか思いを馳せられないものです。

歴史小説家が描く世界は、得てしてその人が信じる、あるいは信じたいものであり、主観が強く働くことは否めません。

その世界を多くの人が事実と信じ、歴史観が築かれていきます。

この考えは一般市民のみならず、政治家も重宝し、意見の正統性を担保するためにしばしば大衆的歴史観が持ち出されます。

著者が主張するように、「歴史を学ぶ」という行為は、得てして「自分の政治的主張を正当化するために歴史を利用する」結果に陥ってしまうのです。

たとえ専門的なトレーニングを受けた歴史学者であっても、その時代、その社会の価値観から自由ではいられず、人間は「見たいものしか見えない」動物であるため、公平・中立・客観にもとづいて歴史を評価することは不可能です。

本書を読むと、時代の価値観が歴史観、歴史認識をいかに規定し、人口に膾炙するかという問題について考えさせられます。

自分自身の先入観や偏見を振り返るうえでも、本書は重宝すると思います。

ぜひ読んでみてください!

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