こんにちは、アマチュア読者です!
今回ご紹介するのは中国の古典『列子』です。
数ある中国の古典的な作品の中で、本書には多くの寓話が盛り込まれています。
古典というと「なんか難しそう」と感じるかもしれませんが、本書は独立した短い話で構成されているので読みやすいんです。
「中国の古典を読んでみようと思っているけれど、読みやすそうな作品はないかな」と考えている方にはおすすめです。
漢文や書き下し文が含まれていますが、話の意味を知りたい方は現代語訳が併記されているので、それだけ読んでも十分楽しめます(わたしもその一人です)。
列子という人物
「列子」は本書の主要人物である列禦寇(れつぎょこう)の尊称で、「子」は先生に近い意味を持っています。
彼は道(真理)を体得した人物であり、その知見は先人の黄帝や老子にもとづいているので道家(どうか、道を説いた学派)と呼ばれています。
黄帝は、中国を統一した開国の帝王と言われているとともに、中国医学の始祖として崇められています。
イチローがCM出演している栄養ドリンク「ユンケル黄帝液」の由来にもなっているので、親近感が湧くでしょうか。
老子は最初に「道」という概念を提唱し、「何もしていないように見えて、すべてを創り出している存在をあえて名付けるなら道とする」と表現しています。
後世に現れた荘子とあわせて、老荘思想と呼ばれています。
列子の思想もこの学派に含まれます。
たとえば「論語」で有名な孔子や、その思想を継承した孟子は聖人君子然とした印象を受けるので、関連書籍を読むと「聖人君子のような、あんな立派な人間にはなれないよ」という気持ちになって、自分とは関係のない話だと思う方もいると思います。
また、列子と同じ道家の老子や荘子は、あまりに達観しているので崇め奉る対象になりえます。
一方で、本書に登場する列子は、師匠にいつも叱られて、先輩からは注意を受けたりしています。
もちろん賢者であることには間違いないのですが、落ち込んだり恥ずかしい思いをする列子には、何か親近感を覚えました。
司馬遷の『史記』列伝には列子が登場しないので、実在を疑う見方もあります。
しかしながら、「こんなにおもしろいんだから、列子が実在したかどうかは気にならないな」というのが『列子』を読んだわたしの感想です。
わかると楽しい故事成語
『列子』には、学校で習う四文字熟語や故事成語の由来となった話が出てきます。
故事成語というと、「暗記しなきゃいけない難しい言葉」という印象を持つかもしれません。
しかしその元となる話を理解すると、「こんなにおもしろい話だったのか!」と親しみが湧いて自然に覚えてしまいます。
一番古い出典が『列子』なのかどうかは諸説ありますが、今回は本書に登場する有名な故事成語を一部ご紹介したいと思います。
その① 朝三暮四
宋という国に猿を飼っている男がいました。
たくさんの猿を飼っていて、愛情を注いでいました。
この猿使いは猿の考えていることが理解でき、また猿も猿飼いの気持ちがわかりました。
そのため、彼は家族の人数を減らしてまでも猿の欲しがるものを与えてやっていました。
ところが彼は急に貧乏になってしまったので、仕方なく猿の食糧を減らそうと考えましたが、猿が自分になつかなくなることを心配しました。
そこで、まず猿をだましてこう言いました。
「お前たちにドングリの実を分けてやるのに、朝は3つで晩は4つにしようと思うがどうだろう?」
すると猿たちはみな立ち上がって怒り出しました。
そこで猿飼いは、言葉を変えてこう言いました。
「お前たちにドングリの実を分けてやるのに、朝は4つで晩は3つにしようと思うがどうだろう?」
すると猿たちは一斉にひれ伏して喜びました。
この話のおもしろいところは、ドングリの実を1日で7つもらうことには変わりないのに、朝に3つもらうか4つもらうかで怒ったり喜んだりすることです。
利巧な人と、そうでない人との間では、このようなことは日常的に起こっているでしょう(いまこの瞬間にも)。
プライベートでも学校でも会社でも、自分の意見を押し通すために詭弁やレトリックを使う人は、この猿飼いと同じですね。
「この猿たちも上手くまるめ込まれたなw」と笑っている方も、振り返ってみると実は同じ目に遭っているはずです。
単純な笑い話にできないところが、「朝三暮四」の奥深いところです。
人生経験を積めば積むほど、この話は味わい深くなっていくのではないでしょうか。
その② 杞憂
杞の国に、天が落ち、地が崩れて身の寄りどころがなくなってしまわないかと心配して、夜も眠ることができず、食べ物もろくにのどを通らない男がいました。
その男を心配する男がいて、彼を諭してこう言いました。
「天は大気の集まりでしかないんだから、落ちてくるわけがないじゃないか」
するとその男はたずねました。
「天が本当に大気の集まりだとしても、太陽や月や星が落ちてくる心配はないのだろうか?」
彼を諭す男はこう答えました。
「太陽や月や星も大気の集まりの中でただ光り輝いているものでしかないよ。だから万が一落ちてきても怪我なんかしないよ」
男はさらにたずねました。
「じゃあ大地が壊れたらどうするんだ?」
こういった会話が続きます。
このひたすら心配する男は、現在でも漫才などで演じられる役柄ですよね。
ありもしない心配をして笑われる人は古今東西、いつの世もいるのでしょう。
ただ、そういった心配がたまに現実になるところが怖いですね。
ちなみに列子はこの話を聞いて、次のように答えています。
生きている者には死んだ者のことはわからないし、死んだ者には生きている者のことはわからない。未来の人間には過去のことはわからないし、過去の人間には未来のことはわからないものだ。だから、天地が崩壊するとかしないとか、そんなことに心を悩ますのは無駄なことだ。
列子(上)岩波文庫
人間のことですらわからないのに、天地を含めた自然のことなどわかるわけがないというのは卓見ですね。
おわりに
今回は中国古典の『列子』をご紹介しました。
おもに故事成語の由来となった話を書きましたが、他にも味わい深い寓話が満載です。
自分で処理しきれない膨大な情報に日々さらされている私たちは、わからないことは調べればわかるという発想が染みついています。
しかし、人間のあずかり知らない自然を含めた「道」を体得した道家ならではの言葉にふれることで、そういった固定観念から適度な距離を置くことができます。
いまの時代だからこそ、本書を読む価値は一層高まっています。ぜひ読んでみてください。
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