【大地震に対する科学と政治の立場】小沢慧一『南海トラフ地震の真実』

ノンフィクション

こんにちは、アマチュア読者です!

今回は、小沢慧一南海トラフ地震の真実をご紹介します。

南海トラフ地震は、静岡県から九州沖にかけてマグニチュード8~9レベルの巨大地震を指し、30年以内に「70~80%」の確率で発生するといわれてきました。

この確率について、科学的根拠をとるか、防災予算の獲得を優先するのかをめぐって政府や地震学者が激しい議論を繰り広げていたことをご存じでしょうか。

本書『南海トラフ地震の真実』は、新聞記者である著者が数多くの当事者に対するインタビューを通して、南海トラフ地震についてまわる「70~80%」という確率の根拠や、科学者と政府関係者の意見の相違を解き明かした作品で、第71回菊池寛賞に輝いています。

本書では、中日新聞で2019年に掲載され、2020年に日本科学技術ジャーナリスト会議の「科学ジャーナリスト賞」を受賞した「南海トラフ 80%の内幕」と、2022年に掲載された「南海トラフ 揺らぐ80%」の二つの連載企画記事をもとに大幅に加筆し、その後の取材結果も交えた検証と分析が反映されています。

検証と分析の屋台骨となったのは、政府の委員会が確率を検討した会議の膨大な議事録です。

著者は長期にわたる粘り強い取材の中で入手したこの資料を丁寧に読み込み、南海トラフ地震の確率が紆余曲折していく様子を追っていきます。

地震本部の事務局を担当する文科省に対して、情報公開を何度も求めて入手した会議の議事録には、当時の生々しい議論の様子が書き記されていました。

南海トラフ地震の30年確率を検討するにあたり、高い確率を算出する計算モデルを採用することに科学的に問題があると猛烈に反対する地震学者たち。

まずお金をとらないとはじまらない」「こんなことを言われたら根底から覆ると、何としてでも一度出した確率を低く出すことを阻止したい行政担当者や防災の専門家といった委員たちの抵抗。

地震が発生する確率を巡って、科学的に精度の高い数字を伝えたい地震学者たちと、防災対策を強固なものにするために確率を下げることはしたくない行政側の議論は、科学や政治のあるべき姿を考える上で非常に示唆に富んだ内容です。

そもそも南海トラフ地震とは?

南海トラフ地震は、東日本大震災のあとで特に注目されている巨大地震のひとつですが、そもそもどのようなメカニズムで起こる地震なのでしょうか。

南海トラフの「トラフ」は、凹みやくぼみを意味する言葉です。

南海トラフとは、静岡県の駿河湾から遠州灘、熊野灘、紀伊半島の南側の海域や土佐湾を経て宮崎県日向灘沖まで続く、海底の溝状のくぼみのことです。

このくぼみは、海側のプレート(フィリピン海プレート)が陸側のプレート(ユーラシアプレート)の下に沈み込むことで大きくなります。

海側のプレートが沈み込むと、陸側のプレートも地下に引きずられ、陸側のプレートは歪んでいきます。

この歪みが大きくなると、元の形に戻ろうとする力も大きくなり、やがて限界に達すると大きな揺れとなって地表に大きな影響を及ぼします。

南海トラフ地震のように、沈み込むプレートの境界で発生する地震のことを「海溝型地震」と呼び、震源が海にあるために津波を引き起こす恐れがあります。

一般的に規模が大きく、南海トラフでは100~150年周期で地震が起きるとされています。

以前は別の地震として考えられていた東海地震、東南海地震、南海地震を包括的にとらえたものが南海トラフ地震です。

「70~80%」の時間予測モデル

南海トラフ地震は、「時間予測モデル」という特別な計算式を使って算出されています。

地震は海側のプレートが沈み込むことによってひずみが溜まり、ある限界点に達すると陸側のプレートが跳ね上がり、激しい揺れを起こすことで発生します。

地震後も海側のプレートは変わらず沈み込み運動を続け、ひずみを溜めていき、限界に達するとまた跳ね上がります。

このサイクルに要する時間を割り出せるとして提案されたのが時間予測モデルで、1980年に発表された仮説です。

このモデルでは、限界点は常に一定で決まっていて、次の地震が起きるまでの時間と隆起量は比例することを前提にしています。

本書ではこのモデルの考え方がわかりやすく紹介されています。

たとえば、1年に「1」目盛りずつひずみが溜まっていき、「100」目盛りに達すると地震が起きるメーターがあるとします。

時間予測モデルに従うと、大きめの地震が起き「80」目盛り分のひずみが解放された場合、次の地震が起きるのは80年後になります。

逆に小さめの地震が起き「30」目盛り分しか解放されなければ、30年で次の地震の限界点に達することになるというロジックです。

このとき、ひずみの量を測る目盛りの役割をするのが、地盤の「隆起量」になります。

地盤は大きな地震が起きればそれだけ隆起し、その後、プレートの沈み込みによってゆっくり沈降していくため、このモデルでは隆起した分だけ沈降すれば、次の地震が発生する考え方をしています。

時間予測モデルと実際に起きた地震における挙動の関係を示す実例として、論文では過去の隆起の記録が残っている三つの場所(高知県の室津港、千葉県の南房総、鹿児島県の離島の喜界島)が紹介されています。

なかでも、室津港の隆起量はモデルの理論にぴったりと合ったデータが取れており、南海トラフ地震を予測する上で多くの研究者を納得させました

時間予測モデルの論文は世界的に評価されており、権威性は抜群だったのです。

これに対して、他の全国の地震で使っている計算式は「単純平均モデル」といって、過去に起きた地震の発生間隔の平均から確率を割り出す手法です。

当初、地震学者たちは時間予測モデルの方が地震発生の物理的メカニズムを考慮している分、単純平均モデルより精度よく予測できると主張していました。

時間予測モデルの信憑性と確率低下に対する猛烈な反対

ところがこの時間予測モデルは、科学的な検証をおこなう中でその信頼性に疑問が投げかけられるようになります。

「室津港1ヶ所の隆起量だけで、静岡から九州沖にも及ぶ南海トラフ地震の発生時期を予測していいのか」

「このモデルのデータは宝永地震と安政地震と昭和南海地震の3つだけ。圧倒的にデータが不足しており、たまたまうまく法則が当てはまって見えているだけなのでは」

こういった指摘が多くの地震学者から上がりました。

南海トラフ地震の確率を算出する時間予測モデルではなく、一般的に使用される単純平均モデルを採用すると、発生確率は「70~80%」から「20%程度」に下がります。

自然な流れとしては、科学的な検証の結果、より適切なモデルを使って長期的に地震を予測していくことになりそうですが、実際はそうならなかったといいます。

普段は長期評価に関わらない政策委員会に意見が上程されると、「確率を下げることはけしからん」と猛反対を受けたのです。

政策委員会は地震学者だけでなく、行政担当者や民間企業の担当者、社会学者などといったさまざまなキャリアを持つ専門家らが委員を務め、予算の調整や調査観測の計画を立てる組織です。

同会の委員らは、南海トラフ地震はこれまで「発生が切迫している」ことを根拠に防災対策を進めていたので、確率を下げるとその根拠が失われてしまうと考えました。

「○○年後に□%の確率で地震が発生する」という長期評価は、地震学にもとづく科学的な評価であり、だからこそ誰もが信頼する情報のはずです。

その客観的であるはずの確率が政治的な都合のみで決まっていたとしたら、地震が発生する確率の公表値は、答えありきの非科学的な数字ということになります。

地震発生の確率が高くなれば、国民は恐怖を感じて防災に関心を持ち、政府が防災対策に多額の予算を投じることを容認してくれる。

高確率の予想をいったん公表し、手厚い防災対策を計画・実行している行政側としては、その確率を下げることはしたくない。

国民の税金を使って防災対策を進めているのであれば、目を向けるべきは国民のはずですが、現実の政治はそうなっていないということになります。

地震学者たちは、せめて時間予測モデルと単純平均モデルを同列に扱う「両論併記」で報告書を書こうと提案したものの、結果は報告書の一番目立つ「主文」に時間予測モデルの確率だけが残り、単純平均モデルはそのずっと後段の「説明文」の中に、参考程度として埋もれる形になったといいます。

言ってみれば、単純平均モデルで算出した確率は、契約書の下の方に小さく書かれている文言のように読者の目につきにくい形で掲載されることとなったのでした。

地震発生の確率をめぐって行政側と議論した地震学者たちは、それなりに実績を上げた研究者ばかり。

時間予測モデルはおかしいと言っている、こういった委員たちの意見が通らず、経緯も公にならない実情を知ると暗澹たる気持ちにさせられてしまいます。

地震発生の確率をめぐる科学と政治の議論

本書で扱われている地震学者たちと防災対策を計画・実行する側の人たちの議論を読むと、科学に誠実であろうとする研究者と、防災対策の予算取りを気にする行政側の人たちの考えの違いが明確にわかります。

一度は時間予測モデルを採用して南海トラフ地震の発生確率を「30年で70~80%」としたものの、議論を重ねた結果、単純平均モデルで算出した20%がより正確であり、この結果は公表するべきだと考える地震学者たち。

一方で、国民に一度70%~80%と伝えてしまった以上、それを20%に下げてしまうと防災を巡って大混乱が生じ、防災予算も獲得できなくなってしまうために何としても避けたいと考える行政側の人たち。

どちらの言い分もそれぞれの立場で考えれば理解はできますが、確率を決める議論と防災予算獲得の議論は別の話で、国民が納得する形で着地させるのが参加者の役割のはずです。

科学と政治が絡んだ地震を対象とする議論において、答えありきではなく主権者である国民にとって最も価値のある情報を提案するためには何が必要なのか、本書を通して多くのことを考えさせられました。

おわりに

今回は、小沢慧一南海トラフ地震の真実をご紹介しました。

地震という自然現象のメカニズムが解明されていない現状で、大規模な災害をどこまで想定するべきなのか。

それをどのようなプロセスで議論するのか、透明性をもって国民にどのような形で公表することが最適なのか。

本書は考えるべき多くの視点を提供してくれるノンフィクション作品です。

この機会にぜひ読んでみてください!

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