こんにちは、アマチュア読者です!
今回ご紹介するのはジャン=ジャック・マップルの『ペリクレスの世紀』です。
本書は紀元前5世紀の古代ギリシャの政治や文化、経済事情などが秀逸にまとめられています。
この世紀を代表する人物として著者が挙げているのがペリクレスです。
今回は、本書を読んで学んだペリクレスという政治家の人物像や、彼が生きた紀元前5世紀のギリシャにおける人々の生活ぶりをご紹介します。
ペリクレスという政治家
ペリクレスは紀元前429年にペスト(あるいはチフス)にかかって亡くなっています。
国際紛争が起こったばかりの当時のアテネは、この病気に犯されていました。
この紛争はペロポネソス戦争と言われていますが、実際にはギリシャ世界の大半がこの戦争に熱くなっていました。
ペリクレスは紀元前490年頃に生まれ、紀元前460年から紀元前429年までのおよそ30年の間、政治の世界で重要な役割を果たしました。
肩書としては将軍職と言うものしか持たず、それもわずか9年間の事でしたが、その職務を通じて当時最も中心的な民主主義の信奉者が集まる多数党の指導者として尽力しました。
政治家としての器量が短かったにもかかわらず、むしろその短さと悲劇的な死のゆえに、ペリクレスは同時代人ばかりでなく、広大なアテネ人からも処方されました。
これらの人々は、彼の時代を当てるにとって最も輝かしい時代と考えました。紀元前5世紀末に、早くもペリクレスを最初に賞賛したのは歴史家トゥキュディデスでした。
彼が残した未完の大著『戦史』で、雄弁家あるいは政治家としての才能を駆使してペリクレスが与えた影響力を讃えています。
『戦史』で語られるペリクレスの演説を読むと、聞く者を理性的になだめ、感情的に高揚させることに非常に長けていたことがわかります。
ペリクレスはこの権力をアテネに対してだけでなく、アテネがその大艦隊を恐ろしいまでに効果的に駆使して制圧し、傘下に収めた小アジアとエーゲ海の無数の島々や都市からなる「支配圏」に対しても行使しました。
彼は紀元前460年から紀元前430年までの30年間で、ギリシャ世界における最も強力だった都市の事実上の指導者であったことは間違いないでしょう。
ペリクレス時代の古代ギリシャ
紀元前5世紀には、人民の意思によって多くの記念建築物や聖所が建てられ、それらは後代の長きにわたって残るすばらしい傑作の数々によって飾られました。
ペリクレスの時代には芸術的事業も花開いたのです。
ペリクレスから4半世紀後のプルタルコスも、「壮大で比類なく美しい優雅な建物が次々と立てられ、芸術家たちの努力もさることながら、その仕事の速さも特筆すべきものだった」と『英雄伝』で称賛しています。
建築物だけではなく、この時代にはアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの三大悲劇詩人による傑作も生まれています。
『アガメムノン』『オイディプス王』『バッカイ』といった代表作は現代でも普遍的で、経験したことのない読後感が長く残ります。
古代ギリシャの格差や不平等
必ずしもすべての市民が同等ではありませんでした。持てる者と持たざる者とのあいだには、かなり明確の断絶が存在していました。
例えばアテネの民主制では、紀元前5世紀においてなお、市民のあいだに富に応じた4つの階級がありました。
その富はかつてのように小麦の収穫量や牛馬の所有能力によってではなく、年収額によって計算されるようになりました。
政治的平等が社会的平等をともなうことはまったくなく、紀元前5世紀のアテネ人にとってそれはほとんど無意味な概念でした。
彼らは市民という身分、家柄、宗教、道徳などの極めて重い桎梏に縛られていました。
戦争が勃発するこの紀元前5世紀という時代では、家族、部族、そして特に市民(国家)は格別重い兵役や財政的貢献を彼らに求めました。
それだけでなく、市は市民に対して道徳的宗教的思想を強制し、反政府的あるいは不敬な観念を抱いた場合、彼らは裁判において追及され、場合によっては死刑に処せられました。
なかでも有名なのは、ペリクレス時代の終わる紀元前399年のソクラテスの例で、ソクラテスはその言論裁判の結果、毒にんじんを飲まなければなりませんでした。
このあたりのソクラテスの心境は、プラトンの『ソクラテスの弁明』や『クリトン』に詳しく書かれています。
古代ギリシャの経済事情
アテネやスパルタのような大都市の社会的経済的特徴は、家事以外の経済活動の大半とまでは言わないまでもその多く(商業や職人的仕事)が、政治活動にほとんど参加しない人々の手によってなされている点にあります。
アテネの外国人、スパルタの劣格市民などがその例です。また揺籃期にある銀行的な仕事についても同様なことが言えます。
ただ農業と牧畜だけは、奴隷の手を借りる借りないはともかく、市民によって直接的あるいは間接的に運営されました。
実際少なくともペロポネソス戦争時代に入って農村部が荒らされ、アテネで伝統の根本的変動が生じるまで、農村経済は、程度の差こそあれ、多くの地域で政治社会を支える重要な基礎としてとどまっていました。
スパルタでは平等者が排他的に軍事活動に従事するのに対し、劣格市民は職人的仕事のほうに向かいました。
アテネではソロンにさかのぼる法に従って、原則としてすべての市民が何らかの仕事を習得しなければなりませんでした。
彼らは多くの場合、職人的仕事か商業に携わっていました。
それ以外の人々は大地から得られる収穫や収入を生活の糧としました。
彼らの活動は本質的に政治的でした。公務並びに軍務に対する様々な報酬が制度化されたのは、賃金労働者が政治的、法的、軍事的活動に参加できるようにするためでした。
アリストパネスは、鞣し革職人クレオンをはじめとする市民が最高の政治的任務を担ったり、手仕事をなりわいとしなければならないのに語源的な意味での「民衆の指導者(デマゴーグ)」になったりすることを揶揄しました。
ちなみに古典ギリシャ語でデマゴーグは、本来「民衆」demosを「導く」ago人の意味です。
アテネの輸出品は手工業品が多く、その筆頭は油、大理石と並んで陶器や素焼きの容器などがありました。
こうした取引関係の多くは、交換を基礎としてなされたに違いありません。
しかし紀元前5世紀になるとラウレイオン銀山のおかげで純度の高い貨幣を打刻するアテネの影響のもと、貨幣経済の進展が見られました。
しかし覇権時代とその前夜を含めた時期のアテネは、同盟国の貢税とは別の収入源を持っていました。
宗教関係の出費は個人に請け負わせた聖地の不動産税の収入による特別勘定でカバーされていました。
国庫はいろいろな面から財源を見出しました。
ラウレイオン銀山の開発はペルシャ戦争時代に活発化し、裕福な市民に権利が譲渡されながらも、貨幣を発注する市の独占となりました。
自領内に銀山を所有する他の都市も、同様の独占権を行使していました。
アテネで生まれた民主主義
現代人から見てペリクレスの世紀(紀元前5世紀)の人々が賞賛に値する理由の1つは、民主主義という言葉を考え出したことにあります。
この言葉が初めて登場したのは、ヘロドトスによれば、おそらくこの世紀の第三・四半世紀で、このときに人々は模範的な民主制を確立させたとされています。
アテネの本格的な民主主義が生まれたといえるのは、紀元前462年〜紀元前461年からです。
市の上級職に就きうる特権が最も裕福な市民から奪われはしなかったものの、市民によるコントロールによって彼らの政治的独立性が失われました。
アテネの貴族階級は富と政務の伝統を保持していましたが、彼らは民衆の意志と矛盾しないことに同意する場合でしか、つまり民衆の意志を導くことができる限りでしか、もはやその影響力を駆使することができなくなっていました。
ペリクレス亡き後、民主派の彼の後継者たちは、クレオンのようなデマゴーグやアルキビアデスのような野心家も含めて、極端な覇権主義を唱え、スパルタと交渉することを何度となく拒否しました。
ペリクレスのような賢明な助言者のいないこうした過激化した民主主義は、まず不幸なシチリア遠征を誘発し、その結果は紀元前411年の寡頭制樹立の企てや、最終的にはアイゴスポタモイの大敗となって現われ、さらには苛立った貴族らが集まるヘタイレイアという一種の政治結社によって組織された「30人僭主制」の介入を招きました。
古代ギリシャの医学
医学に関しては、紀元前5世紀はヒッポクラテス(紀元前460年頃から?)の世紀であるといえるかもしれません。
ヒポクラテス医学、つまり科学的医学が臨床的観察と厳密な方式を援用する医学の時代が始まりました。
科学的医学が世紀の神聖な医学や、特に農村地方を背景として経験的医療(調合薬物治療)あるいは呪術的(男女の順位)治療と肩を並べ始めた世紀の始まりです。
ヒポクラテスとその弟子たちは、ギリシア世界を回りながら知識と脳波を普及しました。
彼らは地域のデータを観察し(ヒッポクラテスが一時タソスに滞在して、疫病を研究したのはその一例です)、薬と節制を命じて治療し、弟子を要請し、再び労労の生活となっていくのでした。
ヒッポクラテスの概論『空気、水、場所について』は「医師が見知らぬ町に着いたとき、一般的な病気の概念はもとより地域の病気も無視してはならないし、病気の処置において慌ててはならない。また前任の医師が大事な方法を深く追求しなかったからといって、その過ちを論評してはならない」と詳述しています。
そういう場合、彼は土地と住民をじっくり観察しなければなりません。
彼は本格的な診療所をつくり、設備に細心の注意を払っていました。
「できるだけ高さのそろった椅子を配し、患者と医師が同じ高さになるようにしなければならない。また器具以外に青銅を使ってはならない。道具に青銅を使うのは、場違いな贅沢と思われるからである。患者への治療には清潔な飲料水を与えなければならない。洗浄に使う衣料品は清潔で柔らかくなければいけない。つまり眼には布を、傷口には海綿を使わなければならない」(「医師について」)。
古代ギリシャ人と現代人の価値観の違い
このように現代にも通底する政治や文化を生み出したペリクレスの世紀ですが、すべてを手放しで称賛するわけにはいかないこともあります。
わたしたち現代人から見て、もっと深刻そうで、理解の仕方によってはペリクレスの世紀全体の評価を落としかねないパラドックスがいくつも存在します。
現代の視点から見て最も衝撃的な矛盾の1つは、政治社会に横たわっています。
アテネをはじめ、かなりの都市で奴隷制が当たり前で、どの都市でも市民的権利が限られた数の人々にしか認められていないとき、一体どうして平等とか民主主義について語ることができるのかは大きな疑問です。
ペリクレスによって支配される都市アテネが、デロス同盟の諸都市に対して覇権主義を発揮し、同盟もそれを完全に承認し、すすんで誇りとしているとき、どうして自由と自主をそのアテネで絶えず口にしていられたのでしょうか。
これらが多くの人に受け入れられていたという事実は、当時の見方や判断の仕方が、今日のそれとは違うということを表しているのでしょう。
5世紀ではすべての人々が奴隷制は自然の法則にかなっていると認めていました。
したがって生まれつき市民共同体に属していない人々に市民権を得ることなど思いもつかないし、男性よりも劣っているとされる女性とそれを分かつことも考えられないことでした。
男尊女卑という言葉すら話題に挙がらないほど当然のこととみなされ、掟のようなものだったのかもしれません。
社会主義的思想も紀元前5世紀には無縁であり、奴隷の労働であれ、外国人や自由人の労働であれ、人間の労働条件の規制に考慮を払うものなど、誰一人いませんでした。
誰もが自分の希望と運を神に託すことによって最大の運命論者ぶりを発揮した、大都市の覇権主義的支配に関して、一人として動揺するものはいませんでした。
アテネが弱小都市を支配する権利を備えたのは、その自治権、自由な企業精神、その活動力の結果なのです。強力な都市が弱い都市に命令し、場合によって搾取するのは自然の法則が望むところだ、と考えられました。
ただそれが過剰にならなければ、つまりデルフォイの神殿に刻まれた名句「矩を超えず」に従いすればよいのです。
紀元前5世紀と言う時代は残酷と優しさ、民主制と僭主政的覇権主義、隷属と自由、迷信と初期不可知主義、道徳の危機と過去の価値の検証(というより人間の幸福と利益の方向への価値観の更新)の時代でした。
同時にそれは動乱、暴力の時代、興奮の時代でさえありました。
ペリクレスの世紀は矛盾、パラドックス、対立、要するに激烈な生命の時代でした。
しかし戦争や虐殺や不正や一部の精神の狭隘さが生み出したこうしたネガティブな側面があるからといって、建築の偉大さや文学の気品、ソフィストの才能と論理、彼らと並ぶ哲学者の思想の独創性、そしてアテネにおいてなされた当時の思考の範囲で最も実現可能な民主制の追求等々を忘れてはなりません。
この世紀を古き良き時代として、理想化してはならないのだと思います。良いところだけを抜き出して理想化することは、それを変形することであり、単純化し、歪曲し、非現実化することになります。
現代に倦み疲れている状況では、遠い過去に思いを馳せてしまいがちですが、複雑なものをそのまま複雑なものとして抱え、安易にシンプルな理解に向かわないことは、ものごとを深く考える契機になるのだというのが本書の読後感でした。
おわりに
今回はジャン=ジャック・マップルの『ペリクレスの世紀』をご紹介しました。
古代ギリシャというと、あまりに遠い昔の異国の地だと連想してしまいますが、本書を読んで当時の人々の生活ぶりや著名人の偉業を知ることで、自分の世界を広げることができます。ぜひ読んでみてください。
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