こんにちは、アマチュア読者です!
今回は哲学者プラトンのおすすめ著書をご紹介します。
作品が世に出た順に並べているので、プラトンの哲学に興味がある方にとっては読む順番を考える上でも参考になるかと思います。
プラトンは紀元前427年にアテネで生まれました。
哲学の祖と呼ばれ、「無知の知」という言葉で有名なソクラテスの弟子として研鑽を積み、ソクラテスの死後は自著の中で彼を登場させ、自らの思想をソクラテスに託した作品を多く生み出しました。
わたしたちが無意識に思い浮かべる「哲学」の原型はプラトンにあるといっても良いかもしれません。
(余談ですが、ソクラテスの「無知の知」は、近年では「不知の自覚」がより正確な意味だとする研究もあります。)
プラトンはアテネに学園アカデメイアを創設し、43歳はなれた弟子のアリストテレスも入門しています。
アリストテレスは王子アレクサンドロス(のちのアレクサンドロス大王)の教師として有名であるだけでなく、中世哲学に絶大な影響を与え、哲学にとどまらず生物学、物理学、政治学などの数多くの著書は近代の発展にも貢献しました。
その偉大な人物もプラトンの教えを受けていたのです。
プラトンの作品は難解な部分もあるものの、現代の私たちが読んでも意味が通じ、心の栄養となる言葉にも出会えます。
「興味はあるけど難しそう」「最後まで読み切れるか心配…」と思っている方も、この機会に手に取ってみてください!
『ソクラテスの弁明・クリトン』
本書はプラトンの初期の作品であり、岩波文庫が1927年に創刊されて以来、現在にいたるまでの累計販売部数で1位に輝いている著作です。
本文は100ページ程でコンパクトですが、その内容には終始圧倒されます。
ソクラテスが告発者から「人々を欺く雄弁家」「神々を信じてはならないことを教えて青年を腐敗させる者」などと憎悪を込めて訴えられたことに対して法廷で弁明を試みる話で、この独白には感動せずにはいられません。
ソクラテスの弟子で友人でもあるカイレフォンはかつて聖域デルフォイにおもむき、「ソクラテス以上の賢人はいるか」という問いに対する答えを神託に求めました。
デルフォイの巫女はこの問いに対して「ソクラテス以上の賢人は一人もいない」と答えます。
ソクラテスはこの神託を知って自問自答し、賢者と評判の政治家や詩人、手工業者に会いに行っては対談をするのですが、彼はこんなことを悟りました。
とにかく俺の方があの男よりは賢明である、なぜといえば、私達は二人とも、善についても美についても何も知っていまいと思われるが、しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていないからである。されば私は、少なくとも自ら知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。
「無知の知」という言葉はこの作品によって有名になったと言われています。
哲学者ソクラテスが死刑に際して聴衆に語る彼自身の生き方には思わず惹き込まれ、その言葉には普遍的な重みがあります。
また本書におけるソクラテスは、「恥辱に比べれば死やその他のごときものは念頭においてはならない」という信念を持っています。
次の言葉は何気なく日常を送っている私たちに、大切なことは何かを問いかけているように思えます。
好き友よ、アテナイ人でありながら、最も偉大にしてかつその智慧と偉力との故にその名最も高き市の民でありながら、出来得る限り多量の蓄財や、また名聞や栄誉のことのみを念じて、かえって、智見や真理やまた自分の霊魂を出来得るかぎり善くすることなどについては、少しも気にかけず、心を用いもせぬことを、君は恥辱と思わないのか
卓越した筆致は芸術的とも呼ぶべきで、哲学と表現してよいのか逡巡するほどの魅力を備えています。
一生に一度は読むべき作品だと断言できます!
本書にはソクラテスを諷刺した同時代の喜劇作家アリストファネスも登場します。
アリストファネスは代表作『雲』のなかでソクラテスを雄弁なソフィストとして描き、「不正を正に、悪を善に」見せかける詭弁術を弟子に教え込む役割を担わせています。
ソクラテスは『雲』を諷刺作品と知り、侮辱を受けたとも思わずアリストファネスを攻撃しませんでした。
『雲』を読むと、雄弁なソフィストが当時どのように見られていたのかがわかり、本書を理解する助けになります。
アテネの喜劇詩人アリストファネスの著書についてはこちらで紹介しているので、参考にしてみてください!
『プロタゴラス』
タイトルの「プロタゴラス」は、当代随一と謳われるソフィストの長老の名前です。
彼の言葉で有名なのは、「人間は万物の尺度である。あるものについてはあるということの、あらぬものについてはあらぬことの」という命題です。
アテナイの地にやってきたプロタゴラスに興奮した友人ヒッポクラテスに促され、ソクラテスはプロタゴラスと対面します。
いったいプロタゴラスに師事するとどういう効果があるのかという話から始まり、2人は「徳は人に教えられるものなのか」について長々と議論します。
プロタゴラスは徳を人に教えられるものであると考えます。
反対にソクラテスは徳を人に教えられるものではないという立場をとりますが、この議論のプロセスにおいて私たちは多くを学ぶことができます。
たとえばプロタゴラスの雄弁な長広舌に、その場に居合わせた人々は見事な弁舌とばかりにどよめきます。
しかし、ソクラテスは「わたしは忘れっぽい人間なので、わたしのために答えを切り詰めて、もっと短くしていただけませんか?」と返します。
問いをかけられるたびに話を引き延ばして長々と演説を行い、討論をそらして答えを与えようとせず、聞いている者のほとんどが元の話を忘れさせてしまうやり方に異を唱えるのです。
あるいは、「臆病な人々はこわくないものへ向かい、勇気のある人々は恐ろしいものへ向かうと世人はいう」とするプロタゴラスに対して、「わたしがお尋ねしているのはそんなことではなく、あなたは勇気のある人々が何に向かうと主張されるのか、ということです」と聞き返すソクラテス。
プロタゴラスのようなソフィストや政治家をはじめとする弁舌さわやかな人は、今も昔も世間の注目を浴びるものです。
しかし、その耳ざわりの良い言葉は本当に人の役に立っているのか、もしかしたら自分はソフィストになっていないかといったことを考えさせられます。
この対話篇の設定年代は紀元前443年か前432年頃と考えられています。
ペロポネソス戦争(前431-前404)はまだ始まっておらず、卓越した政治家ペリクレス(紀元前495-前429)のもとでアテナイは国力の最盛期にあり、「ギリシアの知恵の殿堂」と呼ばれるような文化の中心地でした。
同時に、新たな思想的潮流や教育活動の担い手であるソフィストが盛んにこの地を訪れていた時代でもありました。
この頃のギリシアについては『ペリクレスの世紀』という本に詳しく書かれており、以下の記事でも紹介しているので参考になさってください。
『ゴルギアス』
本書のタイトルである『ゴルギアス』は弁論術の教師として名高い老紳士で、その社会的ステータスが持つ貫禄と品格を備えた人物として描かれています。
対話篇である本書は、弁論術をメインテーマとした作品です。
弁論術を擁護する大家ゴルギアス、その若い弟子ポロス、政治家カリクレスの各人に対して、ソクラテスが対話を通じて弁論術を批判し、徐々にその本質をあぶり出していく構成がとられています。
ソクラテスが弁論術の定義についての自己矛盾を指摘し、「迎合」を武器にする弁論術が何の道徳的反省もなく無条件で賛美されている実態を明らかにし、「これから生きるはずの時間を、どうすれば最もよく生きることができるか」という問いかけをしていく展開には目が離せません。
本書で議論されるテーマは、どの時代でも、どのような社会でも普遍的に生じる問題で、現代社会においても例外なく当てはまります。
読んでみると、ソクラテスと対話している弁論家たちが、まるで世間を賑わせている現代人をモデルにしているかのような錯覚に陥ります。
なお、本書に登場する政治家カリクレスの語る強者の倫理は、「ヨーロッパ文学のなかで背徳者の立場を最も雄弁に説いたもの」と評され、哲学者ニーチェの思想にも大きな影響を与えたといわれています。

『ゴルギアス』は読みやすくなった新訳も出版されているので、こちらもおすすめです!
『饗宴』
本書の舞台は、悲劇詩人アガトーンが悲劇競演で優勝した日の翌日、アガトーンの家で催された饗宴です。
祝福に訪れた友人たちは、「愛とはいったい何か」をテーマにそれぞれの考えを披露していきます。
後の者は前の者を批評しながら、より善い話をしようと演説に力を入れます。
ソクラテスは他の参加者の話を聞いたあと、最後に登場しますが、彼はディオティーマという女性との対話をつうじて愛とは何かを説きます。
「人々の愛するものは、善きもの以外にはない」
「愛とは、善きものが永久にわが身のものになることを目的にしている」
「愛の対象は不死でもあり、すぐれた人物であればあるほど不朽なる徳のため、また不朽なる徳を持つという輝かしい名誉のために、ありとあらゆることをおこなう」
途中の論理展開に付いていけなくとも、こういったキャッチーなフレーズがあるとモチベーションが上がり、最後まで読み通せます。
多様な愛の姿が論じられ、美のイデアとしての愛に終わる本書は「プラトニック・ラブ」の出典となった、まごうことなき名著です。
また、本書には『ソクラテスの弁明』と同様に喜劇詩人アリストパネスが登場し、ソクラテスたちと明け方まで飲み明かす描写があり、両者の立場を知っていると面白さが倍増する場面です。
『パイドロス』
友人のパイドロスが、傾倒している弁論作家のリュシアスが書いた恋についての文章を読み聞かせるところから本書は始まります。
それを聞いたソクラテスがおこなう文章の吟味を皮切りに、弁論における技術とは何か、ものごとの本性を考察するには何が必要なのか、書かれる言葉と語られる言葉の違いは何かといった様々なテーマが扱われます。
ソクラテスが語り、パイドロスも同意する理想の人間像は印象深いです。
正しきもの、美しきもの、善きものについての教えの言葉、学びのために語られる言葉、魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉、ただそういう言葉の中にのみ、明瞭で、完全で、真剣な熱意に値するものがあると考える人、―そしてそのような言葉が、まず第一に、自分自身の中に見出され内在する場合、つぎに、何かそれの子供とも兄弟ともいえるような言葉が、その血筋にそむかぬ仕方でほかの人々の魂の中に生れた場合、こういう言葉をこそ、自分の生み出した正嫡の子と呼ぶべきであると考えて、それ以外の言葉にかかずらうのを止める人、―このような人こそは、おそらく、パイドロスよ、ぼくも君も、ともにそうなりたいと祈るであろうような人なのだ。
親愛なるパンよ、ならびに、この土地にすみたもうかぎりのほかの神々よ、この私を、内なるこころにおいて美しい者にしてくださいますように。
そして、私がもっているすべての外面的なものが、この内なるものと調和いたしますように。
私が、知恵ある人をこそ富める者と考える人間になりますように。
また、私の持つお金の高は、ただ思慮ある者のみが、にない運びうるほどのものでありますように―
書き記された書物であっても、語られる言葉の持つ力が伝わってきます。
ソクラテスがパイドロスに一つひとつのテーマについて語りかけ、意見を求めながら対話を通じて思索を深めていく過程は、ごちゃごちゃになりがちな頭の中を整理してくれるので一般読者にとって優しく感じられます。
対話篇という形式を哲学者としてはじめて採用したプラトンのおかげで、2000年以上前に書かれた哲学書を馴染みのない読者も楽しめるのだと思うと、学術的な観点だけではない著者の凄さを感じずにはいられません。
『テアイテトス』
テアイテトスはソクラテスの弟子と推測される人物です。
彼が取り組んだ学問は哲学・天文学・数学など多岐にわたり、特に数学における無理数や立体幾何学の研究は学問的業績として高く評価されたといいます。
本書はもう1人の弟子であるエウクレイデスが、ソクラテスとテアイテトスの対話を実際にソクラテスから聞き出し、書物に仕立て上げたという体裁をとっています。
テアイテトスが取り組んでいる学問についての話をはじまりとして、「いったい知識というものは何であろうか」という問いについて、ソクラテスが先導役になって2人の議論が進んでいきます。
ソクラテスはみずからを産婆と称して、思考を働かせて生み出したものを精査する腕を自信たっぷりに説きます。
彼は対話が進むほどに驚くほどの進歩を遂げることは疑いないと語り、自分からの問いに一生懸命に答えるよう何度もテアイテトスを励ますのです。
本書でのソクラテスの饒舌ぶりは特筆すべきもので、当時の世間からも非難されるほどのものであったようですが、その一見無駄とも思える話を通じてテアイテトスは頭をめぐらし、ときにソクラテスに「とおっしゃるのは、それはどういうことなのでしょうか」と問いかけながら思索を深めていく過程がわかります。
本書を読み通すことで、知識についての議論だけではなく、哲学とは何か、考えるというのはどういうことなのかを学ぶ契機が得られます!
おわりに
今回は哲学者プラトンのおすすめ本をご紹介しました。
プラトンと聞くと、どうしても「難しいことが書いてあって読み通せる気がしない…」という気持ちを抱きがちですが、虚心坦懐に読むことで私のような哲学初心者でもグッとくる言葉に出会うことができました。
「哲学」という言葉に必ずといっていいほど付いてまわるプラトンの作品を読んで、自分の世界を広げましょう!
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